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Twinkle Tremble Tinseltown 1

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Igor's alive





 ミスター・スピアーズがまた新しい男めかけを連れてきたらしいという噂が、ティンゼルタウンの上流階級はおろか通いで来ている家政婦の口から相当な下々の者まで伝わる時間など、一週間も必要としなかった。


 もっとも噂はあくまで噂。そもそもこの街で検事なんて職業は憎悪半分、畏怖半分の眼で見られるのは当たり前だし、彼の犯罪者に対する容赦ないお仕置きは世間に広く知れ渡っている。脛に傷ある連中や資金集めパーティーの招待状を受け取れなかった有閑マダムは、くだらない風評へ涎を垂らして飛びついたに違いない。材料は揃っていた。ミスター・スピアーズは20年ほど前に結婚した妻をたった半年で追い出して以来独り身を貫いていたし、かといって浮いた話は皆無。料理を作りに来るミセス・カーシュを除いて家で使うのも男ばかりで、それも入れ替わり立ち代りやってくる彼らの特徴がどれも似たり寄ったりときては。


 今回運転手とプライベートな身辺警固のために雇われたフェルナンも、世間が推測する「採用条件」にぴたりと当てはまる男だった。白人、ジョン・ウェインばりの逞しい体躯、端整な顔立ち、余計なお喋りはなし。そしてブロンドではない。脚立に跨ってニワトコの枝に鋏を入れている姿などノーマン・ロックウェルの描く絵にでも出てきそうな風情があり、声を掛けてみたいと思う女性がいても不思議ではなかった。実際幾人が当たり障りのない会話を交わすことに成功しているし、もうしばらくは挑戦者も後を経たないだろう。

 迷惑なのは疑いを掛けられた当の本人で、と言いたいところだが、実際のところ彼の本心はわからない。いくら下世話で勇気ある人間でも面と向かって正体を聞くことは出来ず、かといって彼の経歴を知っている者もいないので勝手な物語は妄想以上に膨らまない。街の外のガソリンスタンドで目をつけられた、いやもともと海兵隊員だった、などと勝手に話が作られても、本人はどこ吹く風。訊ねられたら答えるのだろう。しかし誰も聞き出さずにいた。

 結局のところ怖がりな小市民が気にするのは彼が良い人間か悪い人間かという二択問題に尽き、その点に関して言えば、どうやら悪い人間ではなさそうだという意見が大多数を占めるのにそれほどの時間は掛からなかった。口数こそ少ないものの、フェルナンはその態度で自らの性質をちゃんと表明することが出来たからだ。



 窓ガラスを叩く指先は赤く、ガレージの外に据えつけられた照明を反射して硬質な輝きを放っていた。灰皿の中でもみ消された煙草が断末魔の紫煙を上げ、細く開いた窓の隙間から溢れ出す。それが髪に纏わりつくことなどお構い無しに、女はシャンパングラスを車内に差し入れた。彼が逆らわないことを知っていたのだろう。丸く結わえてピンを突き刺した茶色の髪の下、テグスで皺を伸ばした顔が艶やかな微笑を湛えている。
「差し入れよ」
 強化ガラスが完全に降りたにも関わらず、フェルナンの表情はまだ読めないままだった。ただ礼儀に則って、明らかに酔っている口調の女へも律儀にどうも、と返す。渡されたペリエへ口を付けていないにも関わらず、彼の声は低く心地よくしゃがれていた。
「パーティーは?」
「退屈ったらありゃしない! もっとも今回の目的は、ルヌヴィエ・ドゥ・ラ・ソミュール伯爵夫人への謁見ですけどね。それにしたって」
 摘まんで掲げた自らのシャルドネをごくりと飲み、綺麗に描かれた眉を吊り上げる。
「あら、これはお家の特産品じゃなくてシャブリなの」
 幾台かのリムジンが押し込められた駐車場は、二人以外の人影が見えない。このご時勢に個人契約の運転手を抱える者など稀だし、その貴重な数人も下層階級用に用意された晩餐を平らげに邸宅の台所へ集っている。主人の悪口や噂話が飛び交う社交場へ新しい仲間が滅多に脚を運ばないということは、謎が謎を呼ぶ一つのきっかけになっていた。女もそれを聞きつけ、当て込んで来たに違いない。庇のおかげで薄暗い建物の中、胸元につけたダイヤと同じくらい藍色の両目が輝いている。アルコールのせいではないだろう。高い酒は酔うためにあるのではないのだ。


 緋色のドレスを地面に引きずることなど全くお構い無しで、女は磨き上げられた車体に寄りかかった。
「こんな良い男を車に閉じ込めとくなんて、グレッグもワルよねえ」
 フェルナンは微笑んで、窮屈そうにシートへ埋めていた身を据えなおした。大きく開かれた胸の谷間を注視するわけでもなく、青灰色の瞳を失礼にならない程度の真剣さで女の口元に向けている。むしろ相手の体を遠慮会釈なくねめまわしているのは女のほうだった。お仕着せのタキシードでは隠し切れぬ二の腕の筋肉は、ジムで個人トレーナーと一緒に設計する観賞用のものではない。緩い下目使いを維持したまま、女はわざとらしい吐息を零した。
「フェルナンって、どうかしら。フランスっぽいわね。それともスペイン?」
「カナダですよ」
 押し出すような口調でフェルナンは答えた。
「当たらずしも遠からずってところ」
「ケベック?」
「Non,madame. Je suis de Vancouver.」
「すごい」
 きゃっきゃっとまるで少女のような笑い声を上げ、女は手を叩いた。
「軽口も言えるのね」
 でも、と少しだけ眉を顰めグラスを振った際、僅かに残っていたシャルドネが底で跳ねる。
「奥様はやめてちょうだい」
「では……ええ」
 数秒動きを停止してから、男の丸い目が瞬く。そして言葉を飲み下した後にやってきたのは困惑とかすかな含羞だった。先ほどから男の顔つきは少しずつ、段階的にその柔らかさを増している。固まっていた表情筋が動き始めるにつれ、その面立ちが実はお澄ましなどに向いていないということが明らかになっていく。動物のように即物的な感情を表に出したとき、男は黙っている時の数倍魅力的だった。
「何と?」
 柔和というよりは愚鈍に近い顔へ戸惑いを上乗せして、フェルナンは居心地悪そうに肩を揺らした。
「名前」
 まるでその瞬間を待ち構えていたかのように、瞳の奥がきらりと光る。機械油の匂いが漂う空気の中で豊かな髪を揺らし、女はほんの僅かに顎を持ち上げた。
「そう、名前でね。堅苦しいのはいや」
 身が屈められ、年を食ってもそれなりに美しい顔が同じ高さにまで降りてきたとき、フェルナンは片眉を吊り上げた。
「こう呼んで」
 女の唇が窄められたのと、男の眼が再び感情を無表情の奥に隠してしまったのはほぼ同時のことだった。



 放射状に飛び散った脳漿と筋組織を顔といわず胸といわず浴びた時、フェルナンの頭へ咄嗟に浮かんだのは、ああまた怒られる、という慣れきった怖れだった。発射音も掠めた357マグナムに切り裂かれた空気も確かに傍を通り抜けたのだろうがさっぱりわからない。ただトマトのように砕けた女の顔右半分で視界が潰れるのを引き継ぐよう、彼は目を強く閉じた。静寂に血塗れた肌の上を撫でられて、そのまま更に眉間に皺まで寄せる。このまま何も聞こえず、主人も車も自分自身も、世界に存在するありとあらゆるしがらみが全て消えてしまえばいい。心の底から思いながら、フェルナンは次に訪れる声を強張った体で待ち構えていた。
「バンクーバーだって?」