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野村は恋をしている

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『野村は恋をしている』

十二月になったというのに雪が降らず、代わりに雨。それも何日も降り続いている。その日も、朝から降り、まんべんなく街を濡らしていた。
繁華街にある小さなバーに、結婚と離婚を繰り返し、今は独り身である野村ハジメがいる。店の常連になって、もう五年が経つ。
十一時を回る頃、マリコが客を玄関まで見送った後、カウンタに座る野村の隣に座った。長い髪が少し濡れている。
「ひどい雨ね」と濡れた髪をハンカチで拭きながら呟いた。
「まだ止まないのか?」
「全然よ。ほんのちょっと先も見えないほど酷い土砂降りよ。どうなっているのかしら?」とマリコは微笑む。
マリコとは親子といっていいほど歳が離れているが、不思議と気があった。
 金曜の夜なのに、周りをみると客はいない。他のホテテス達はカウンタの隅で、静かに暇をもてあましている。
 有線放送のピアノの曲が耳障りなほど響く。
酔いが回ってしまった野村は軽い睡魔に襲われた。雨の音は届かないのに、野村にはピアノの曲が雨の音のように聞こえてきた。
「激しい土砂降りだな」と虚ろな眼で野村は言った。
「酔っているのね」
「酔ってなんかいないよ」
 野村は沈黙した。
マリコが覗き込むと眼を閉じていた。
野村は久しぶりに夢を見ていた。子供の頃の夢である。……川があった。川は蛇のように曲がりくねって流れていた。川は鏡のように季節の色を映していた。その大きな鏡の上を滑っていく舟があった。少年の彼はその舟に乗っていた。……
「寝ているの?」
 マリコは野村の頬を指で軽くなぞった。
「いや、寝ていていない」
「嘘! 気持ちいい顔をしていた。まるで夢を見ていたような顔していたよ」
「違う」
「オジサンは嘘をつけない人よ」
「オジサンか……前も言ったけど、その表現は少し気に食わないな」とタバコを取り出した。マリコは素早く火をつけた。
「じゃ、お兄さんに変える」と言うと、マリコは笑った。
 子供っぽい笑みに誘われたのか、野村も微笑んだ後、ふとグラスを握る、自分の手を見た。皺だらけだ。誰が見たってオジサンであることを再認識させられ、ほんの一瞬顔が曇ったが、マリコは気づかなかった。
「確かに夢を見ていたよ……」と言うと、グラスの中のウィスキーを一気に飲み干した。
「ねえ、どんな夢?」
「話したくないね。……遠い昔の夢さ。君なんか信じられないような遠い昔の夢さ。まるで別世界のような話だ……」
 野村は誰かに聞いたことがあった。幼い頃のことを思い出すのは老いた証拠であるということを。最近、よく幼い頃の夢を見るようになった。老けたとは思わないが、己の中に何かが少しずつ変わっているのだと思った。
「そう……じゃ、聞かない」
 マリコはグラスに何もないのを確認すると、水割りを作った。
「私は自分の人生が分からないの。どう生きたら分からないの。それで、ここに勤めてみたの。ねえ、野村さん何のために生きているの?」とマリコはじっと何か探すように見つめた。
「君は幾つだ?」
「前に言ったでしょう? 二十一よ」
 野村は笑った。マリコもいたずらっぽい眼で笑った。
 たった二十一くらいで哲学者のようなことを言う。二十一で何か分かるというのだ。馬鹿馬鹿しいと思う反面、自分も同じようなことで悩んでいることに悲しいような何ともいえない気持ちに襲われた。
「二十一……その頃は良かった。夢があったな」
 夢という言葉が閃いたが、どんな夢であったか思いつかない。ぐるぐると回っているようなめまいを感じている。まるでメリーゴーランドに乗っているような気分だ。
「どんな夢?」
 野村は時計を見ていた。時計の針は十二時を回ろうとしていた。もうすぐ明日が始まる。しかし、それはどうでもいい明日である。何の希望もない明日……
「もうすぐ、店じまいだね」と野村は呟いた。
「帰る?」
「そうだね」
「私も今日は帰る。一緒に帰る」とマリコは言った。
 野村は「別にかまわないが」と答えた。

 店を出ると、雨は止んでいた。空を見上げると、珍しく満月が出ていた。赤い月であった。街はまだ行き交うひとが多い。二人は腕を組みながら自然と駅に向かった。会話はあまりなかった。それでも、野村は久しぶりの少し緊張した、それでいて少し愉快な気持ちに包まれた。
 歩くたびにマリコの豊かな胸の感触が肘に伝わってくる。柔らかくて心地好い。野村は別れた妻の乳房を思い出した。どこか張りを失った乳房を。
一緒に腕を組んで歩いているうちに、野村の胸の底にマリコを自分のものにしたいという欲望が少しずつ積み重なっていった。ちょうど砂時計の底に少しずつ砂が溜まるように。
 公園の片隅に来た時、突然、野村は歩みを止めた。そこは大きな木の下である。月の光が届かない。まわりには人影もない。野村はマリコの大きく見開いた瞳を見つめた。遠くから射す外燈でその澄んだ瞳が分かった。
「綺麗な眼をしている」と野村が呟くと、マリコは微笑んだ。
 野村はどこかぎこちない動作で、マリコを抱き寄せた。野村の胸に豊かな胸の感触がさらに強く伝わってきた。
突然、「傘を忘れた!」とマリコが囁いた。
「取りにいかなくちゃ」
「傘なんか、幾つでも買ってやる」
「本当に?」
「嘘はつかないさ」
 どこか子供っぽさが残るマリコ。身体は充分に大人なのに、どこか幼さを残している。そのアンバランスさが堪らなく野村は気に入っていた。
「君のことが好きだからさ」
野村はこういった類のセリフが苦手な筈なのに、その時に限ってすらすらと言えた。
 野村がゆっくり唇を近づけた。
「キスするの?」と呟いた。野村は答えなかった。
 それでもマリコは少し照れ臭そうに眼を閉じた。甘美なキスだった。甘くてどこか胸を締めつけるようなキス。ゆっくりと野村は腰に手を回した。マリコの張りつけた臀部の感触を楽しんだ。
「もう、いやらしいんだから……」とどこか甘えるような口調でマリコは離れようとしたが、野村は許さなかった。再びキスをした。
 野村とマリコの不思議な関係が始まったのは、それからだった。……甘いキス。それは心に刺さった小さな刺に違いなかった。日を増すごとに深く野村の心の深部に刺さっていった。

 大企業では、出世という梯子を登れるのは一握りである。課長、部長と進んでいくうちに梯子を外され、年老いていくと、組織の片隅に追いやられる。部長代理という肩書を持つ野村もまた梯子を外された一人である。責任は軽く、たいした仕事もない。終業になれば、やることがないから、直ぐにオフィスを出る。マンションに戻っても、待っている人がいるわけではないから、野村の足がバーに向かうのは自然なことだった。そこは独りであることを忘れさせてくれる場所だったから。そして、野村にとって、マリコは可愛くて切ないほど愛おしい存在になっていた。

 一ヵ月後のことだった。
「今夜、一緒に帰ろう」と野村は言った。
「どうしようかな?」とマリコは呟いた。
「なら、決まりだ」
「強引ね」
「男はそういうものさ」
 野村はマリコと一緒に店を出た。街は夏服の女達で溢れている。お祭り騒ぎようににぎやかである。老若男女、みな馬鹿みたいはしゃいでいる。
「うれしそう」
「俺か?」
作品名:野村は恋をしている 作家名:楡井英夫