てふと
心臓が今まで聞いたこともないような勢いで音を立てていた。
ハンドルを握る手は力を入れ過ぎて真っ白になっているし、ブレーキを踏みこんだ足はまるで凍りついたように動かない。
そう言えば呼吸とは一体どのようにするんだったか、視ると言う行為はどうやって行うんだったか。
エイルは一つ一つ人間の基本的な動作を思い出して、ようやく大きな深呼吸を落とした。
はりついたようになってしまっている指を一本一本ハンドルから剥がして、車の外に出る。
夏とはいえ街から少し離れた山中の空気はひやりと刺すように冷たい。
先ほど体中から噴き出した汗が更にエイルの体を冷やした。
背筋の粟立つようなその冷たさがエイルに現実を突きつけて来る。
つい、ほんの数分前。
人気の少ない、森に囲まれたその道でエイルは少し飛ばし気味で車を走らせていた。
このあたりには民家もなく、精々隣町へ行くだとか昼間にハイキングがてら足を運ぶ人間がいる程度で夜になればそれこそ人っ子一人いないという状況が常だった。
その油断こそが命取りと言うべきか、エイルの車の前へ人が飛び出した。
もちろんブレーキを踏んだし、ハンドルも切って飛び出してきたソレを避けようとしたがあまりにも必死過ぎた為に本当に避けきれたかどうかさえエイルには分からなかった。
ヘッドライトだけが頼りという薄暗い森のただなか、奇跡的にも木にぶつからなかったのはちょうどその手前にあったくぼみにタイヤがはまり込んだせいのようだった。
普段ならば舌うちの一つもしたくなるそのシチュエーションでさえ今はホッと胸をなでおろしたくなる。
だが己の車よりも飛び出してきた他人だ。
エイルは常備しているペンライトをダッシュボードから取り出し恐る恐る辺りを照らした。
するとちょうど道の真ん中にぽつんと転がる何かがある。
ザァッと耳の奥で血の気の引く音がした。
一歩、二歩、三歩、半ばよろけながら足を動かせば後は何かの衝動に突き動かされるように地面を蹴っていた。
「お、おい!アンタしっかりしろ!!」
倒れていたのは女だった、それも不気味なほどに色の白い。
本当に生きた人間かと疑いたくなるようなその肌の色に更に気が遠くなりかけたエイルだったが、ほんの僅か耳に届いた女のうめき声がエイルを現実へと引き戻した。
生きている、よくよく感じてみれば女を抱きあげた腕には仄かなぬくもりを感じられた。
どうやら引き殺した訳ではないと気付くと途端に女に少しばかり怒りが湧き上がる。
誰も居ないからと車を飛ばしていた自分も自分だが、急に飛び出してきた女にだって非があるだろう。
文句の一つも言ってやらねば気が済まないと女を抱き起し抱えようと腕を回し、エイルは妙な違和感に気付いた。
確かに女の体は温かいし、口元へ耳を近づけてみれば呼吸音も聞こえる。
ライトで照らしてみる限りでは女の体に外傷はない、だがどうしてか女は体中から力を抜いたままでぐったりとエイルの腕に体を預けていた。
どこか見えない所を怪我しているのか、はたまた倒れた時に頭をぶつけたショックで脳に障害でも出たのだろうか。
医者ではないのだから詳しい事が分かるはずもないが頭をぶつけたのだとすればあまり動かさない方が良いような気がする。
しかし一回抱きあげてしまった以上抱えたままが良いのか再び地面に横たえるべきなのか、寝かせるならば車に連れて行った方が良いのか、どちらにしても病院に連れて行った方がいいに違いない。
どうすべきだろうか、と苛立ちに任せて思わず額に手をやろうとしたエイルの腕になにかが引っかかった。
視線を落とせば先ほどまで瞼を閉じていたはずの彼女が薄く目を開き唇を震わせてエイルの腕に指を掛けている。
「アンタ、大丈夫か?!頭とか、どっか痛い所は」
生きていた、と思わず安堵して矢継ぎ早に声を掛ける、しかし女は何か妙な表情をしていた。
もちろんエイルが以前に人を撥ねた事があると言う訳ではないが、撥ねられかけた人間というのはもっと助けを求めるような表情をするものだろうと思っていた。
だがエイルの腕を掴んでいる女はもっと必死に、何かを訴えかけるような表情をしていた。
「なんだ…」
唇が僅かに動くが何を言おうとしているのかは聞きとれず口元へ耳を寄せる、だがやはり空気が漏れ聞こえてくるだけで言葉は何もなかった。
しかしエイルが彼女の伝えたい事に気づくまでにそう時間は掛からなかった。
なぜなら顔を寄せたことで彼女の首筋がエイルの視界に入ったからだ。
正確には背骨に近い当たりだろうか。
彼女の背に羽が生えていた。
もちろん絵本に出てくる天使の羽が生えているという訳ではない。
ダーツの矢羽根に似た銀色の短い矢のような物が彼女の背に深々と刺さっていた。
「なんだよ、これ…」
ただ事ではない、そう感じた。
思わず手を伸ばし力を入れると彼女がうめき声を上げたが、予想していたよりもあっさりと抜ける。
まさにそれはダーツだった。
ただし針の先はまるで注射針のようになっており、シャフトは良く見ればガラス製で何かが入っていたような形跡がある。
「と、とにかく病院行くぞ!頭とか」
「…メ、だ」
「あ?なんだって?」
先ほどより大きく、彼女が何かを口にした。
これを打った人物に心当たりでもあるのかと再び彼女の口元へ耳を寄せる。
「イ、者は…ダメ…」
「ダメって、だってアンタ…おい!」
ズシリと再び腕に重みが掛かり、彼女が意識を手放した事をエイルに伝えてくる、が。
「駄目って、どうすんだよ。」
気を失った女、女に刺さっていたダーツ、動かない車。
医者も呼べないとなればどうするか、とエイルは目の前に立ちはだかる問題の数々に、またも大きく深いため息をつくのだった。