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優しい海に沈めない

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 就活中は歩き過ぎて足が痛くなっちゃたんですよ。夕食中の会話を彷彿とさせる、さらりとした告白だった。聞き間違いかと思ったが、紗枝の声はこんな時でもいっそ酷な程に耳触りが良かった。
 一瞬、茜は意味が呑み込み切れずに思考の途切れに取り残された。時計の針の音がやけに耳につく。それが何度か位置を進めた時になって漸く、茜は意味を理解した。それは何も、紗枝の言葉のだけではない。酔った父の友人の言葉も、だ。

『昔あんなことがあったのに、真っ直ぐ育ってくれて』

 嬉しそうな言葉のはずが、そこには拭いきれない暗さがあった。この夜空の闇なんて比べようもない。何も透かすこともない、すべてを飲み込んで尚も暗さを保つような、そんな濃さの闇だった。
 軽いスイッチ音に続いて、か細く蛍光灯の唸りが続いた。ぱっと、急に灯った白色は茜の網膜を容赦なく突き刺す。紗枝が卓上スタンドを付けたのだ。物書き机の古びた表面が照らされ、椅子に座ってこちらを見る横顔が小さな光に晒される。右半分だけ光を得た顔は、余計に左側の暗がりを強めていた。
 白く浮かんだ右半分の顔は、やはり、笑っていた。

「母は、何でもできる人だったわ。でも、強い人じゃなかった。父にはそれが分からなかったみたいだけど、とても心の弱い人だった。だから、幼い自分の娘と一緒に、何もないただ静かに眠れる場所に行こうとしてたの」

 こちらに向けられていた視線が、窓の方へと移る。光の膜が頬を滑り、髪を横切り、クリーム色をしたカーディガンの肩の辺りを包み込んだ。
 茜は、そっと息を吐いた。唇を湿らせた吐息が、震えている。
 想像する。コールタールのようにこごったこの黒の先、海の底にある花畑を。白い花々が咲き乱れ、表面で起こる波の荒れなど少しも気にすることなく、花弁が揺れている様を。
 そうして、その白の合間に横たわり、瞳を閉じてただただ眠り続ける人々を。

「おかしいかな。それでもね、この腕を掴んだ母の指の強さは、愛情だったんじゃないのかと思うの。普通だったら違うんだろうけど、あの人は弱ったから。娘だけは連れて行こうとしたんじゃないのかな」

 影が動いた。母親の指の痕に触れているのかもしれない。もはやここにはいない、形さえもまともではない愛の輪郭を確かめるように。
 どんな顔で、紗枝は海を見ているのだろうか。茜は込み上げてくる震えを押し隠すのに必死だった。最初部屋に入る時に見た、無機質な横顔が思い出される。
 雲の上のような人だと思っていた。テレビの向こう側の人のようにも感じた。どれも、適当ではなかったけれど、一つだけはっきりしている。

 紗枝は、酷く遠い。手の届かない場所に思いを馳せるあまりに、現実の中に馴染み切れない。声とは正反対だ。むしろ声さえも遠かったなら、紗枝はもう何処にも馴染むことなんてできないんじゃないだろうか。
 光の膜が、元の軌跡を辿って紗枝の白い頬を浮かび上がらせる。一瞬、笑みが顔から消えた。
 覗いた瞳は、真っ暗だった。茜が夢想した暗闇のお化けは、こんな所にいたのだ。

「それでも、私はその愛情を振り切って裏切り続けて、未だに『ここ』にいるんだけどね」

 海鳴りが、小さな部屋に満ちる。言葉を失った二人の代わりのように。
 何かを言おうとした茜は、結局、何の言葉の欠片も拾うことができずに俯いた。時計の針が落とす硬質な響きが、沈黙を更に押し固めていく。
 そのままもう、黙り込んだまま闇に同化してしまうんじゃないかと、馬鹿な考えが浮かびかかった時。階下で、扉の開く軽い音とスリッパが廊下を駆ける足音が転がった。あちらこちらを歩きまわっては、自分の名を呼んでいる。

 母だ。きっと下での両親たちの話し合いが終わったのだろう。
 はっと弾かれたように顔を上げると、紗枝の顔には笑みが戻っていた。廊下に通じる扉を見やり、茜に視線を戻すと、唇に立てた人差し指を宛がった。

「ここにいたことは内緒ね。母の遺品とか入れている部屋だから、お母さんが良い顔しないの」

 周囲の段ボールの山を伺う。無造作に積まれた箱は、地震でも来たのなら簡単に崩れてしまいそうだった。何もかもが整ったこの家の中で、唯一異質な空間。死者の存在が色濃い、部屋だ。
 紗枝が腕を置く机の上、スタンドの明りが落とす光のサークルの向こうに写真立てか何かが見えた。ありし日の、愛の形を切り取った一枚が入っているのだろうか。
 部屋を出る間際、扉から雪崩れ込んだ光と室内の暗闇との境目に立って、紗枝はぽつりと呟いた。

「どんな所なのかしらね、海の底は」

 ああ、笑ったな。暗闇お化けが、三日月形に唇を割った。
 白々と、スタンドの明かりが輝く。ここに咲く花は、こんなものしかないのだ。
 歪んだ愛を裏切り続ける紗枝は、白い花揺れる『そこ』に沈むことなんてできない。
暗闇の寄り添うこの部屋で、悔恨と一緒に漂うことしか、彼女にはできないのだ。
作品名:優しい海に沈めない 作家名:はっさく