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優しい海に沈めない

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 海が荒れているね。
 暗がりの中そう呟いた彼女は、ひっそりと笑ったようだった。明かりも灯らない室内は、壁際に席を取る横顔を茜に見せてはくれない。ただ、何となく思ったのだ。ああ、笑ったな、と。

 窓の外の空は、書道の時間に使う墨汁みたいな色をしている。黒と呼ぶには何処か薄っぺらくて、透かしてしまえば向こう側が見えてしまいそうだ。空の向こう側には、何があるのだろう。宇宙、という答えがぽかりと心に浮かんだけれど、何となく相応しくないような気がした。本当に、何となく。答えを探るように、茜はレースカーテンの網目模様を透かし見た。
 夜空に浮かんだ月は半分にも満たない、欠片程の大きさをしている。比例して明るさもほとんどない。父の高校時代からの付き合いだと言う友人宅は、海沿いに立った別荘だ。昼間はリビングからでも海を一望できた。でも、今となってはただただ黒い空間が広がっているだけだ。

「どうして分かるんですか?」
「波の音がね、いつもより大きいの。こういう時は、海が荒れている時なんだよ」

 暗がりの向こう側にいるのは、この家の一人娘の紗枝だ。都心の女子大に通うおっとりとしたお嬢様。そんな言葉がしっくりくる人だ。夏に入った頃にはもう就職活動も終えたらしい。暇なんです、と紅茶を出しながら微笑んだ彼女に両親は感心しきっていた。
 見習いなさいと言われてけれど、来年受験を控える茜にとって、高校飛び越えその先にある大学、更に終着地点となる就職活動まで終えてしまった紗枝は何だか雲の上の人のような感じだった。テレビの中の人みたいな感覚だ。見習いたくとも、自分に引き寄せて考えることなんてできない。

 曖昧に笑って誤魔化した茜に、紗枝はこっそり視線を投げかけてくれた。大人の落ち着きと余裕、そして優しさを持った紗枝に茜は柄にもなく緊張してしまったのだ。この子ったら、と呆れた母には言い訳のように「だって」と唇を尖らせた。アイドルを前にして、素面でいられる人なんているだろうか。少なくとも、茜は浮かれるよりも先に気恥ずかしさが込み上げるタイプであった。
 夕食中もその後も、じっとソファの上で耐えていた茜だったが、思いもよらない事態にそんな城塞から追い出されてしまったのは三十分程前の話だ。

 酔いの廻った父の友人がなんだか神妙な顔で話し始めると、母があからさまに茜を部屋から遠ざけようとしてきたのだ。意味も分からないまま、目茶苦茶な言い分を無理やり聞き届けさせられて、他人の家の中にぽつんと放り出されてしまったのだから、その困惑たるや相当なものだった。
 ただ、困惑こそあれ最終的に母の言葉に従ったのには理由がある。扉が閉まりきる直前、おぼろげに聞こえた会話の雰囲気だ。内容はやはり茜にとっては意味の分からないものだったけれど、ただ、不気味なくらい重苦しい空気をしていたのは分かった。そもそも、今回家族そろって招待に預かったがそれ自体両親は何かあるんじゃないかと夜中話し合っていたのを知っている。これがその「何か」なのかもしれない。

 だとしたら、おまけとして呼ばれた自分が首を突っ込むものではないだろう。そう納得した茜は、右も左も分からない家の中、仕方なしに二階をうろついていたのだ。そうして、何気なく覗いたのがこの部屋の扉だった。廊下から差し込む光の筋の先、見えたのは積まれた段ボールの数々と、その合間に隠れるように座った紗枝の姿だった。
 何をするでもなく座っていた様子はともすれば人形のようでもあって、構えていなかったことも手伝い小さく悲鳴を上げるには十分な威力を持っていた。階下に届く程ではないにせよ、遮るもののない両者の距離だ。紗枝がこちらに気付くのは、当たり前の話だった。

 怖々と頭を下げる茜に、紗枝は朗らかな笑顔で向き直ってくれた。紗枝には、下に居づらくての一言だけで階下の状況と茜がここに来るに至った過程が理解できたのだろう。瞼を伏せて、そう、とだけ答えると暫くここにいるといいと椅子を示して招き入れてくれたのだ。やはり大人になると、理解力も落ち着きも何もかも違うのかな、と茜は小さな感動を覚えたのだった。
 その後は、ぽつぽつと何てことないような会話が続いた。聞き上手の紗枝のおかげで、茜は日頃からは考えられない程あれこれ自身のことを言葉にした。もはやここまで言葉を重ねてしまうと、ここで話す自分と話の中の自分との乖離が激しくなってしまいそうだ。

 一息吐いて、二人の間に沈黙が落ちた時。紗枝が呟いたのだ。海が荒れている、と。言われるがままに波音に耳を澄ませてみたが、茜には比べる情報がない。結局、聞こえてくるさざ波の声を悪戯に数えるだけに終わった。
 紗枝も同じく耳を澄ませていたのだろうか、茜が波の音から意識を戻す所を見計らったかのように口を開いた。

「知ってる? 海の底にはね、花畑があるのよ」

 茜の周りにはない、大人の低さを持った声が暗闇から肩を叩く。相手に見えないことも忘れて、首を傾げた。一拍遅れて疑問の言葉を返すと、その間さえも最初から予想していたかのように絶妙なタイミングで声が届く。不思議な程に耳に馴染む声だ。聞きやすいと言うよりも、ずっと鼓膜の奥を回って余韻が残るような感じだった。

「海の底には、白い花が咲き誇っているらしいの。こんな風に荒れた日も、凪いでいる日も、ただゆらゆらと穏やかに花弁は揺れている。そしてね、一面白いその中で人々は眠っているんだって」
「人々って……」
「うん、海で死んだ人たち」

 暗さに慣れた目は、ぼんやりと輪郭を捉える。それでも、やっぱり表情までははっきりと分からない。だけれど、その時も茜は思ったのだ。ああ、笑ったな、と。
 肩を叩いていたはずの見えない手は、今はすっかりそこに置かれっぱなしになっている。上から茜を押さえつけているかのようだ。椅子の背にぴたりと背中をくっつけて、茜は笑ってしまうぐらいに姿勢を正して前を見続けた。

「ただ、静かに穏やかにそこでは皆眠り続けているんですって」
「そ、そうなんですか。初めて聞きます」
「そうでしょうね。私も昔母から聞いただけだから」
「お母さんですか?」

 夕食の準備を紗枝と一緒にしていた女性を思い出す。きつそうな感じの美人だった。そんな話をするようなイメージとは結びつかない。何も言葉にはせず、小さく首を傾げる。伝えるつもりはなかったけれど、紗枝は楽しげに「違うわ。その人じゃないの」と答えへのヒントをくれた。
 顔は見えない紗枝の代わりに、室内の暗闇が形になって笑っているかのようだ。真っ赤な口の中を覗かせて、三日月形に裂けた笑みを浮かべている。そんな、子供の頃読んだ絵本のお化けが頭を過った。

「母はね、今、『そこ』にいるの」

 外を見る。
 窓の隙間から入り込んでくるのは、ざざんざざんという一定の波音だけだ。それだけしかない。どれだけの波が立っているのかも、茜には予想すらできなかった。ただただ、真っ暗な海面だけを見やる。大きな穴を覗きこんでいるかのような感覚になってくる。

「本当は、私も一緒に行く予定だったんだけどね。苦しくなって、途中で振り払っちゃったの」
作品名:優しい海に沈めない 作家名:はっさく