爪つむ女
「この女、何やってんだ?」
少し俯き加減で考え事をしていた雄次は、頭の上から聞こえてきたパチンパチンという音に顔を上げて、思わずその女の顔を見入ってしまった。
年の頃は三十代後半だろうか。
都内の電車内という場所にしては珍しく化粧っ気がない。正に素っぴんというやつだ。
きちんと化粧さえすればそこそこの美人に変身できそうなだけの容貌は備えているのに……。
髪の毛は明るめなブラウン。肌も年齢の割には綺麗な方だろう。
その女、二重瞼の瞳で自分の手をじっと見つめている。
パチンパチンという音は、どうやらその手元から聞こえてくる。
改めてその手元をじっと見た。
なんと、電車内で爪をつんでいる。
一般的には爪を「切る」と表現するのが普通なんだろうが、田舎育ちの雄次は、子供の頃からの地元の方言が抜けない。だから今も爪は「つむ」と言ってしまう。
そのせいで「えっ?」と不思議そうな顔をされることもよくあるが、だからといって間違っているとは思ってないので、改めようというつもりはない。
その女、改めてよく見ると、立った姿勢で足を少し開き、電車の揺れを何とかしのぎながら、視点はただ自分の手に向かっている。
周囲の目を気にする風でもない。
時々爪の先端を反対の手で触れてみて、そのカーブや当たりを確認している。
雄次はつんだ爪の欠片が周囲に飛ぶのではないかと危惧したが、どうやら爪切りの中につんだ爪が残るタイプの爪切りを使っているようだ。
いくらなんでも公共の場で爪を撒き散らすようでは、その人間性を疑うというものだろう。
女の向かいに座っている70代後半と思し気老人は、少し口を開き、軽い寝息をたてている。
女が一瞬「あっ」という表情で足元を見た。
どうやら収まりきれない爪の欠片がはみ出して、下に落ちてしまったらしい。
落ちたものは仕方ないと思ったのだろう。諦め顔を浮かべた後、爪切りの中の物が再度落ちないように押し込んでいる。
もし、はみ出した爪が飛んで隣の爺さんの口に入ったら……そんな下らない考えが一瞬脳裏を掠めて、つい雄次は声を殺して笑ってしまった。
程なく爪をつみ終わったその女は、爪切りの中身がこぼれないようにそっと、縦縞の地模様のある黒いパンツの腰ポケットにそれを滑り込ませた。
その後は何事もなかったかのように車窓の景色に視線を泳がせていく。
――どうしてなんだろう。どうして電車の中で爪をつむんだろう。
自宅でつむなり、今が通勤途上なら、職場に着いてからつんだっていいことだろうに―― 雄次はそこが妙に気になった。
それにしても……ほとんど満員の電車だというのに、自分以外の誰もその女の挙動に目を向ける者はいないようだ。
都会人の無関心さと孤独を改めて雄次は痛感した。
――あ、そういう自分だって大差はないか。
思わず自嘲の笑いが唇の端に浮かんだ。
間もなく下車駅に着いた雄次は、人波に押されるようにして車外に出た。
その時には既に、雄次の頭には女の事は欠片も残ってはいなかった。雄次の脳ミソは、その日の仕事の段取りに忙しく回転し始めていたのだった。
だから、まさかその女と再び出会い、こんな関係になろうとは、その時の雄次は想像だにしていなかった。