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かつても、こんなことがあったのだろう。まだ義隆兄だって十歳だったのに、奇妙に大人びて、いっそ父親を連想するような手でわたしの肩を叩かせる程、凜華姉にそっとお布団へくるまれる程。
その晩叔母に起きた出来事を、それが強姦には至らずその寸前で駐在さんに止めてもらえたということを大人達の内緒話のかけらから推察することができるくらいわたしが成長した頃、わたしは叔母を嫌悪した。
あの晩、泣いて帰ってきた彼女にさえ「どうせ自分で誘ったんじゃないの」と毒づくくらい。
高校に入って、「ほのか」という音に「幽」という字をあてることもあると知った時、わたしは戦慄した。
幽霊の幽。
人魂の青い燐の輝きは、彼女のものだった。
叔母の美貌は異界に通じる。今でも、わたしはその戦慄を根拠に確信する。
異界の者はそちら側、へ人を招くのだ。
彼女を襲った男はその後刑務所へ入った。その年の春に結婚したばかりの、わたしでも顔を知っている近所のお兄ちゃんだった。奥さんと、そのお腹の中にいたらしい赤ちゃんがどうなったのかは知らない。
お兄ちゃんの一族はもろともあの街からいなくなってしまった。
そんな事件は叔母がほんの少女だった頃から頻発していたらしい。
彼女が泣きながら帰ってくると、必ず誰かが不幸になる。今まで目立たないで過ごしていた人、田舎でさえちょっと突っ張って暮らしてきた人、誰も彼もが彼女に手を出して、その手が後ろに回る。
ほのかが今の十分の一くらいの美貌なら、こうはならなかった、と晩年の祖母が言っていた。
常に饐えたような老人の、老いの臭いが吐息にさえ濃くなってきた、すっかり小さくなった祖母が語る。
叔母が中学を卒業した春、どこで知り合ったのか田んぼを背景にするには申し訳なくなるような豪勢な車に乗って彼女より三十も年上の見た事もないぴんと張ったスーツの男性が彼女をお嫁にもらうと言った。
祖父母は大反対をしたのだが、叔母のお腹に義隆兄がいたためにしぶしぶ折れた。そのスーツの男も、凜華姉が生まれた直後に他界した。スーツの男はそれまでの妻子を捨てて叔母をお嫁さんにしたらしく、男が存命中から彼らは前妻に執拗な嫌がらせを受けていた。
叔母と前妻と子供達の間でスーツの男がすり切れてしまったかのように、五十を前にして彼はぽっくりと逝った。
ほのかはね、ばけものなんだ。
こわもてだったが情の濃い祖母が実子のことをそう評した。
吐き捨てるように。
祖母にとっては三十になろうと四十になろうと、飽きず誰かの標的にされ、そのたびに誰かを不幸にし続けた娘だった。恥ずかしい娘だ、と。
子供の時、叔母はただただうつくしい、見飽きないお人形のようにうつくしい人だった。
あの夜があってから、叔母はこの世の者ではないくらいうつくしい人になった。
わたしが初潮を迎える頃、わたしは恵まれすぎる容姿の叔母を妬んだ。
わたしが初恋を知る頃、わたしは叔母と、叔母に吸い寄せられ破滅する男達、男達をとりまく女達を嫌悪した。
わたしは、始終、叔母の容姿しか見てこなかった。
彼女がどんな性質の女であるのか、容貌に反して大人しい女だったような気がするのだが、その程度にしか認識できないくらい、彼女の姿形しか、見られなかった。
今、思い出せば、たぶん、不幸な女、と言えるだろう。
誘蛾灯みたいに男の好意、時に彼女の意思さえ吹き飛ばす程の欲望を誘う女だったが、彼女もまた被害者であったと思う。
だが、叔母の傍には、彼女の不幸を目に焼き付けて育った女がいた。
律子、思い出すだけで甘い声でわたしを呼んだ女。
赤いチューリップの球根からは、赤いチューリップが咲く。それくらい正確に叔母の容貌を受け継いだ従兄弟、凜華姉。
叔母と同じような力を持った彼女は、叔母と同じ轍を踏むまいと、ほとんどそれだけを渇望していたような気がする。
被害者になる前に、加害者になればいいの。
叔母と同じ、唇の黄金律、叔母と同じ、舐めたら甘そうな茶色い目、小さい頃のまま仲良しだった従兄弟が女の子たちが秘密を分け合うのを友情のステータスとしたように、わたしに言った。
わたしは問い返せなかった。
加害者ってなに、と言うには、凜華の眼は魅力的にすぎた。
それって素敵ね、って、無条件で言わせてしまうくらい。
素敵でしょう、と彼女が答えるだけで蕩けるような気持ちになれた。
火のような女だった。