108家族:0
火のような女の記憶がある。わたしがまだ幼稚園児だった頃から、長期休暇には必ず従兄弟の兄妹がわたしの実家に遊びにきた。従兄弟たちの家には父親がなく、わたしの家にはまだしっかりと子供の面倒をみられる祖母がいた。
従兄弟達の母親、わたしにとっては叔母、わたしの父にとっては年の離れた妹、従兄弟達にとっては女手ひとつで二人の子供を育てる母親、である彼女は、彼女にとっての母、私にとっての父と祖母を頼って子供を預けていたのだ。
わたしの両親は共働きをしていたので、わたしの育て親は実質祖母であった。まだ田畑や雑木林の多く残るあの街で毎年、夏休みの一月半、冬休みと春休みの半月間、わたしは従兄弟たちと過ごした。
従兄弟、義隆兄はわたしより二つ年上、凜華姉はわたしより一つ年上だった。
叔母は随分若い時に二人を産んだのだ。幼い頃はなんとも思わなかったが、中学に上がり、従兄弟達と過ごした夏休み、毎年、終業式の後の夕方に従兄弟達を連れてやってくる叔母の様子を思い出せば、そのあまりに若い母親ぶりに、たかだか十三四の当時のわたしは思い出すだに嫌悪感さえ覚えた。自分の二つ三つ上の女の子が子供を産むなんて考えられない事だった。
それに気がつく前は、叔母の「ほのかねえちゃん」はわたしのマドンナだった。
まだわたしが小学校二年生の頃だ。わたしの家に従兄弟を預けた帰途、叔母は暴漢に襲われた。
各駅停車の最寄り駅まで徒歩二十分だっただろうか。夜の遅い夏の午後七時、まだ薄闇だった。その薄闇が災いした。いっそ、真っ暗であれば誰もほのかねえちゃんには気がつかなかっただろう。
七月半ばにして既に纏わり付くような湿気の中、春休みぶりに再会した従兄弟達と祖母の作った夕飯をいただいている時だった。玄関に置いてあった黒電話がけたたましく鳴った。
祖母が受話器を取る。わたしたちはアニメを見ている。祖母の重たいため息を背中にきき、わたしたちの背中にぴんと糸が張る。わたしたちは振り返らない。アニメに夢中になっている振りをする。どうしたの、なんて聞かない。わたしも従兄弟達もいつまでも大人を待っている子供だった。大人の帰りを、大人の関心が自分に戻ってくるのを、大人からの情報を。この忙しい大人達に見限られたらおしまいだ、うるさくしてはならない、どこかでそれを知っていた。
振り返らないわたしたちの背中に祖母が言う。
「今日、ほのかがうちに泊まっていくからね」
従兄弟達が振り返った。夏休みの初日を母親と過ごせる歓喜、はそこにはなかった。ほのかねえちゃんと一晩過ごせる事に喜んだのはわたしだけだった。従兄弟たちの面には相変わらずの緊張があった。
「ほのかねえちゃんどうしたの」
「どうもしない。ばあちゃんはちょっとほのかを迎えに行って来るから、ご飯食べてしまいなさい。お茶碗を流しにつけておくんだよ」
祖母の手に祖父の遺品である四角く白い自動車のキーが握られた。
それから祖母は三時間も戻らなかった。義隆兄がお風呂を用意してくれ、凜華姉がお茶碗を洗ってくれた。お布団はいつもの休暇のように祖母の部屋に四つ敷いた。
その日は両親も格別帰りが遅かった。きっとわたし一人なら泣き出していただろう。あの街の夜はむせかえりそうな夏草と湿った土と田んぼのにおいが夜の密度をどろりと濃くしていた。そんな夜にひとりはつらい。
わたしは共働き夫婦の子供であったが、いつも祖母の待つ家に帰る子供でもあったのだ。
だが、従兄弟達は違う。兄妹だけでいることに慣れていた。小さな王女さまのように二人を侍らせ、わたしは休暇のたびにふんぞり返っていた。従兄弟達はそれを許してくれていた。
わたしが欠伸をすることさえ億劫に、蚊帳をつったお布団の中に入ってしまおうと従兄弟達にだだを捏ねていた頃、両親とほのかねえちゃん、そして祖母が帰ってきた。
今まで目蓋を擦っていたくせに、飛び出すのはわたしが一番はやかった。従兄弟達が止める間もなかった。玄関に駆け込んでおかえりなさい、ただいま、とわたしをこんなに待ちくたびれさせた大人達に抱き上げてもらうのが当然だと思っていた。
玄関につくなり、わたしの足は止まった。
祖母に抱きかかえられるように立っているほのかねえちゃんの髪に土と雑草がついていた。涙のあとに泥が流れていた。彼女によく似合う、空色のワンピースがぼろぼろだった。泣き濡れた目のほのかねえちゃんとわたしの目があった。
わたしは痺れた。
傷ついた叔母が、痺れる程うつくしかった。
ほのかねえちゃんの瞳は親戚の誰にも似ていない薄茶色をして、重たいんじゃないかと思う程濃い睫に縁取られていた。それが涙で束になり、ひとたばひとたばが数えられそうだった。唇の黄金律はこうだとでもいうようなふっくらとした紅色は触れただけで散りそうな花びらみたいだった。
叔母は、こんな片田舎にも芸能界を匂わせる人達を呼び寄せてしまうくらい、うつくしい人だった。
彼女を汚す泥は汚れていない肌の真珠色の光沢を際立たせた。乱れた髪さえ清流みたいな艶を失わなかった。泣き濡れた目は、こぼれ落ちる前にすくい取ってやらなければならない、という義務感を、まだようやく少女になりかけたわたしにさえ抱かせた。
彼女の汚れは、彼女を引き立てた。彼女のうちひしがれた様子は、強烈な求心力を持った。影が濃いほど光は眩しい事と同じだ。光の強さは、その白さではなく影の暗さで際立つのだ。
「律子、もう寝ていなさい」
祖母と叔母の前に立ちはだかるように玄関に上がった父は常になく厳しい声をしていた。おそくできた一人娘を溺愛する父ではなかった。四角い眼鏡の恐ろしいおじさんだった。
わたしはおかえりなさいも言わず、寝室に逃げ帰った。蚊帳の中では従兄弟達が寝支度をしようとしていた。
あなたのお母さんがたいへんなの、わたしはお父さんにおかえりもいえなかった。そんなことを彼らに訴えようとした。だが全く違う言葉が零れてきた。
「ほのかねえちゃん、すごく、きれい」
震える声だったと、思う。凜華姉がわたしを手招いて、肌がけをひらいた子供用の布団の中にわたしをいれてくれた。その反対側から、義隆兄がわたしの肩をぽんぽんと叩いた。
そこでようやく、わたしは泣き出した。
「こわかった。すごく。こわかったの」
上からお湯をかけられているように、あとからあとからこめかみが濡れた。肌がけをきつく握りしめていた。高湿高温の夏の夜に、わたしはぶるぶると震えた。
固い声を出した父ではなかった。
あの、抱きかかえられるままの、かげろうのようにほっそりとした叔母が、いつ見ても見飽きずにいつまでも見ていたいと思うようなかんばせが、この夏の夜にこの世ならざるものをわたしに垣間見せた。
ただうつくしいのではない。
それが過ぎると恐ろしいのだ。
手に入れたいと同じくらい強く、火に触れた時のようにわたしは彼女が怖かった。
従兄弟達はそんな母親をわたしよりも当然ながらよく知っていた。あの祖母の声に、きっと彼らはこうなることを予測していたのだ。
従兄弟達の母親、わたしにとっては叔母、わたしの父にとっては年の離れた妹、従兄弟達にとっては女手ひとつで二人の子供を育てる母親、である彼女は、彼女にとっての母、私にとっての父と祖母を頼って子供を預けていたのだ。
わたしの両親は共働きをしていたので、わたしの育て親は実質祖母であった。まだ田畑や雑木林の多く残るあの街で毎年、夏休みの一月半、冬休みと春休みの半月間、わたしは従兄弟たちと過ごした。
従兄弟、義隆兄はわたしより二つ年上、凜華姉はわたしより一つ年上だった。
叔母は随分若い時に二人を産んだのだ。幼い頃はなんとも思わなかったが、中学に上がり、従兄弟達と過ごした夏休み、毎年、終業式の後の夕方に従兄弟達を連れてやってくる叔母の様子を思い出せば、そのあまりに若い母親ぶりに、たかだか十三四の当時のわたしは思い出すだに嫌悪感さえ覚えた。自分の二つ三つ上の女の子が子供を産むなんて考えられない事だった。
それに気がつく前は、叔母の「ほのかねえちゃん」はわたしのマドンナだった。
まだわたしが小学校二年生の頃だ。わたしの家に従兄弟を預けた帰途、叔母は暴漢に襲われた。
各駅停車の最寄り駅まで徒歩二十分だっただろうか。夜の遅い夏の午後七時、まだ薄闇だった。その薄闇が災いした。いっそ、真っ暗であれば誰もほのかねえちゃんには気がつかなかっただろう。
七月半ばにして既に纏わり付くような湿気の中、春休みぶりに再会した従兄弟達と祖母の作った夕飯をいただいている時だった。玄関に置いてあった黒電話がけたたましく鳴った。
祖母が受話器を取る。わたしたちはアニメを見ている。祖母の重たいため息を背中にきき、わたしたちの背中にぴんと糸が張る。わたしたちは振り返らない。アニメに夢中になっている振りをする。どうしたの、なんて聞かない。わたしも従兄弟達もいつまでも大人を待っている子供だった。大人の帰りを、大人の関心が自分に戻ってくるのを、大人からの情報を。この忙しい大人達に見限られたらおしまいだ、うるさくしてはならない、どこかでそれを知っていた。
振り返らないわたしたちの背中に祖母が言う。
「今日、ほのかがうちに泊まっていくからね」
従兄弟達が振り返った。夏休みの初日を母親と過ごせる歓喜、はそこにはなかった。ほのかねえちゃんと一晩過ごせる事に喜んだのはわたしだけだった。従兄弟たちの面には相変わらずの緊張があった。
「ほのかねえちゃんどうしたの」
「どうもしない。ばあちゃんはちょっとほのかを迎えに行って来るから、ご飯食べてしまいなさい。お茶碗を流しにつけておくんだよ」
祖母の手に祖父の遺品である四角く白い自動車のキーが握られた。
それから祖母は三時間も戻らなかった。義隆兄がお風呂を用意してくれ、凜華姉がお茶碗を洗ってくれた。お布団はいつもの休暇のように祖母の部屋に四つ敷いた。
その日は両親も格別帰りが遅かった。きっとわたし一人なら泣き出していただろう。あの街の夜はむせかえりそうな夏草と湿った土と田んぼのにおいが夜の密度をどろりと濃くしていた。そんな夜にひとりはつらい。
わたしは共働き夫婦の子供であったが、いつも祖母の待つ家に帰る子供でもあったのだ。
だが、従兄弟達は違う。兄妹だけでいることに慣れていた。小さな王女さまのように二人を侍らせ、わたしは休暇のたびにふんぞり返っていた。従兄弟達はそれを許してくれていた。
わたしが欠伸をすることさえ億劫に、蚊帳をつったお布団の中に入ってしまおうと従兄弟達にだだを捏ねていた頃、両親とほのかねえちゃん、そして祖母が帰ってきた。
今まで目蓋を擦っていたくせに、飛び出すのはわたしが一番はやかった。従兄弟達が止める間もなかった。玄関に駆け込んでおかえりなさい、ただいま、とわたしをこんなに待ちくたびれさせた大人達に抱き上げてもらうのが当然だと思っていた。
玄関につくなり、わたしの足は止まった。
祖母に抱きかかえられるように立っているほのかねえちゃんの髪に土と雑草がついていた。涙のあとに泥が流れていた。彼女によく似合う、空色のワンピースがぼろぼろだった。泣き濡れた目のほのかねえちゃんとわたしの目があった。
わたしは痺れた。
傷ついた叔母が、痺れる程うつくしかった。
ほのかねえちゃんの瞳は親戚の誰にも似ていない薄茶色をして、重たいんじゃないかと思う程濃い睫に縁取られていた。それが涙で束になり、ひとたばひとたばが数えられそうだった。唇の黄金律はこうだとでもいうようなふっくらとした紅色は触れただけで散りそうな花びらみたいだった。
叔母は、こんな片田舎にも芸能界を匂わせる人達を呼び寄せてしまうくらい、うつくしい人だった。
彼女を汚す泥は汚れていない肌の真珠色の光沢を際立たせた。乱れた髪さえ清流みたいな艶を失わなかった。泣き濡れた目は、こぼれ落ちる前にすくい取ってやらなければならない、という義務感を、まだようやく少女になりかけたわたしにさえ抱かせた。
彼女の汚れは、彼女を引き立てた。彼女のうちひしがれた様子は、強烈な求心力を持った。影が濃いほど光は眩しい事と同じだ。光の強さは、その白さではなく影の暗さで際立つのだ。
「律子、もう寝ていなさい」
祖母と叔母の前に立ちはだかるように玄関に上がった父は常になく厳しい声をしていた。おそくできた一人娘を溺愛する父ではなかった。四角い眼鏡の恐ろしいおじさんだった。
わたしはおかえりなさいも言わず、寝室に逃げ帰った。蚊帳の中では従兄弟達が寝支度をしようとしていた。
あなたのお母さんがたいへんなの、わたしはお父さんにおかえりもいえなかった。そんなことを彼らに訴えようとした。だが全く違う言葉が零れてきた。
「ほのかねえちゃん、すごく、きれい」
震える声だったと、思う。凜華姉がわたしを手招いて、肌がけをひらいた子供用の布団の中にわたしをいれてくれた。その反対側から、義隆兄がわたしの肩をぽんぽんと叩いた。
そこでようやく、わたしは泣き出した。
「こわかった。すごく。こわかったの」
上からお湯をかけられているように、あとからあとからこめかみが濡れた。肌がけをきつく握りしめていた。高湿高温の夏の夜に、わたしはぶるぶると震えた。
固い声を出した父ではなかった。
あの、抱きかかえられるままの、かげろうのようにほっそりとした叔母が、いつ見ても見飽きずにいつまでも見ていたいと思うようなかんばせが、この夏の夜にこの世ならざるものをわたしに垣間見せた。
ただうつくしいのではない。
それが過ぎると恐ろしいのだ。
手に入れたいと同じくらい強く、火に触れた時のようにわたしは彼女が怖かった。
従兄弟達はそんな母親をわたしよりも当然ながらよく知っていた。あの祖母の声に、きっと彼らはこうなることを予測していたのだ。