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サルバドール
サルバドール
novelistID. 32508
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塗り替えられた記憶

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バケツを引っ繰り返したような雨が車体を叩いている。屋根から伝い落ちた大量の雨粒は重力に引き込まれるままにゆっくりと窓の上を流れていく。地面の上では雨が激しく踊っていて、無数の波紋が浮かんでは消えている。黒く濡れたアスファルトの上を蛇が這うように雨水が流れていき、至る所に水たまりを作っている。水たまりは濁った水を湛えているが、その表面には鉛色の空が映り込んでいる。空は黒くて厚い雲に覆われていて、遠巻きに眺めると、魚の鱗を何枚も張り合わせたかのように見える。雲の向こう側には太陽が隠れているはずだが、その相貌を覗かせる気配は一向にない。反対車線を何台もの車が通り過ぎた。水飛沫が舞い上がり、水たまりの表面に映った空の画は一瞬にして壊れた。吹き上がった飛沫は中空で制止したように見えて、次の瞬間には砕け散るように辺りへ飛散していた。路側帯の向こう側で傘を差して歩いていた老人が、水飛沫をまともに受けて不快な表情を露わにした。老人はカッターシャツの上にチェックのベストを羽織っているが、跳ね上がった雨水が血潮のように点々とこびりついている。老人と目が合った。縁のない眼鏡の向こうに皺に覆われた眼が見える。その奥では黄緑色の車が被写体として捉えられている。黄緑色の車は路面の水を弾きながら走っていて、後部座席にわたしを乗せている。わたしは窓ガラスに顔を埋めて老人の顔を見ていて、老人も同じようにこちらを見ているが、その視線はまるで表面だけをなぞっているようで、中にいる私までは捉えていない。ルームミラーとサイドミラーには老人の顔が映り込んでいる。車が排気音と水飛沫を上げて遠のくにつれ、それらは小さな点のようになり、やがて見えなくなった。

視線を車内に戻した。大量の雨がフロントガラスを叩き、その上でワイパーが小刻みに動いて、こびりついた雨粒を拭っている。ルームミラーには運転手の眼が映り込んでいる。疲れが滲んだ眼は一点を見据えたままで動くことはない。車内には重い沈黙が漂っているが、それはこの運転手のせいではない。きっと、わたしなのだ。周囲に沈黙を強いるような何かをわたしは抱えている。わたしという大きな沈黙を乗せて、車は目的地へ向かっている。フロントガラスの向こうにおぼろげながら大きな交差点が見えて、運転手が車体を真ん中の線に寄せた。方向指示器が点滅し、カッチカッチと耳障りな音を立てた。信号が赤から青に変わり、車は線に沿って大きく右折した。右折し終えると、左手にコンクリートの塀が見えてきた。繊維工場の塀で、剥げかかったインクで大きく社名が書かれている。そこを道なりに進んでいくと、尖った屋根の大きな建物が視界を覆い尽した。建物の塀にはプレートが打ちつけられてあって、「○○葬儀会館」という文字が見える。方向指示器が左方向に点滅して、車が車体を左に傾け、塀の中へと入っていった。塀の中には駐車場があって、一般車と社用車が白い枠に囲まれたスペースに停まっている。その一角に車は停まった。ドアが開かれ、湿気を含んだ冷たい空気が身体を包んだ。わたしは運転手に金を払うと、黒のパンプスに覆われた足を地面に下ろした。赤い傘を差して、眼前の建物を見上げた。尖った屋根を頭上に戴いた建物がケヤキの木に囲まれて突っ立っている。わたしはそこへ向かってゆっくりと歩き出し、扉の前まで行くと、傘をすぼめた。扉は木製で観音開きになっている。わたしは濡れた手で取っ手を掴んで手前に引いた。ぎいいいいいという蝶番の軋む音が聞こえ、湿った空気を掻き分けて扉が開いた。

その向こうは正方形の小さな部屋に通じていた。部屋は四方をクリーム色の壁で覆われ、床にはリノリウムが敷き詰められている。正面玄関の右側に縦長の机が置かれていて、喪服を着た男と女がパイプ椅子に座っている。頭の薄く禿げ上がった壮年の男性と、髪が肩くらいまで伸びた30代後半の女性で、そのいずれかは葬儀屋の職員で、もう一人は故人に近しい人間なのだと思う。2人は座った姿勢のまま蝋人形のように動かないでいる。表情は共に暗い。元気がないという意味ではなく、感情そのものを失ってしまったという感じだ。2人に声を掛けて、机上に置かれた名簿に自分の名前を書き込んだ。呪文のような耳障りな声が側面から聞こえてくる。坊主の読経で、それは奥の扉から漏れている。机上にペンを置いて、2人に小さく会釈をし、読経のする方へ向かった。観音開きの扉を開くと、壮麗な空間が眼前に現れた。体育館ほどの大きなホールに黒い椅子がぎっしりと並べられている。背もたれから喪服を着た人間の頭が伸びていて、まるで黒い塊のようだと思う。人々はホールの右側と左側に分かれて座っていて、真中には道が出来ている。その上に光の筋が出来ている。天井には5本のラインが引いてあって、光はそこから届いている。道を辿っていくと袈裟を着た坊主が立っていて、丸められた頭の上で光は止まっている。坊主の眼前には大きな祭壇がある。木で象られた須弥壇の周りにはブーゲンビリアの花が添えられていて、それらに埋もれる形で故人の遺影が置かれている。アキラだ。写真の中の彼は、コカコーラのコマーシャルに出てくる子供のように、白い歯を見せて笑っている。それを見ていると、死んだこと自体が嘘のように思えてくる。扉を後ろ手に閉めて、黒い塊の方へ向かった。耳障りな読経の上を乾いたパンプスの足音がなぞる。参列者は葬儀に意識を集中しているようで、わたしの存在に気付かない。一番後ろの空いた席に座ろうとして声を掛けられた。声そのものは柔らかいが、艶やかな響きがある。わたしはその声を何度も聞いたことがある。声のした方に顔を向け、わたしは顔を曇らせた。真ん中の道を挟んで左側の椅子に由里子が座っている。由里子は、席を立って、わたしが居る方へ近づいてきた。


随分遅かったのね、そう言って、由里子は、わたしの隣に腰を下ろした。わたしは彼女の方を見ないで、道が混んでいて、と適当に言い訳した。そう、と耳元で声が聞こえて、生温かい風が肩にかかった。由里子が髪を掻き上げたのだろうと思った。彼女の髪は背中の真中辺りまで伸びていて、いつも身体に張り付いたようになっている。やたらと髪を伸ばしているのは、耳の裏側にある傷を隠すためだ。傷は昔の恋人からDVを受けて付いたものらしい。