うみぞこのくじら
それ以来、マトモに眠っていない。それでも寝ないと人間は身体を壊してしまう。だから、私が眠っている時は、Mが私の様子を見てくれている。
睡眠時間が短くなった所為か、うみぞこのくじらの夢はあまり見ていない。見たとしても、Mがいてくれたので大事に至るほどではなかった。この借りはいつか返さないと思うが、Mに対して借りを作って置くのは生理的に受け付けられない。
「俺、豆ご飯が食べたいー」
「うっせぇ、眠いのに台所になんか立てるか」
一気に『借り』なんてモノが吹き飛びそうになった。
「まあ、飯もいい加減作って欲しいし、確かにこのままじゃ不味いんだよなぁ」
「お前の召使いじゃないんだけど……」
「元の放送室を選挙するようなあなたに戻ってくださいっ!」
「腐ったみかんでもないっ!」
つ、疲れる。ただでさえ眠くて疲れも取れないのに、こいつといると余計疲れる。
「疲れた顔だな。ここはいっちょこいつを使って……」
「抱き枕(仮)ちゃんだとっ!?」
いつぞや、ノリでUFOキャッチしてしまった抱き枕がそこにあった。というか何勝手に掘り出してんだこいつっ!
「か、返せっ!」
「この抱き枕に抱きついているところを下の階の高校生の子に見つかっちゃって大変恥ずかしい思いをしたとかしないとか」
「なんでその経緯を知ってんのさっ!」
こいつに話した覚えはないぞっ!
「というかまさかこんなカタチで再登場するとは、筆者も思わなかっただろうよ」
私も思わなかった。曰く、この文章を書いてる直前に思いついたとか何とか。相変わらずプロットもクソもない。
「このまま抱き枕(仮)ちゃんにはこの作品のマスコットとして周りを和ませてもらいましょう」
因みにその抱き枕(仮)ちゃんは頭の方が自重で俯いてしまって、首が折れているように見える。マスコットというよりは新手のグロ画像だ。
「さておき、いい加減しっかり寝た方がいいぞ。このままじゃ本当に身体を壊すぞ」
「……」
それは、嫌だ。確かにこいつが私のことを見張っていてくれるのなら、その選択肢もある。しかし、問題はそれだけに留まらない。
一度深い眠りに落ちてしまうと、今度は戻って来れない気がする。前回と違って、今回はもっと直接的に、植物状態のような眠りに陥ってしまうのではないか、そんな不安がある。
「倒れても知らんぞ」
そう吐き捨てて、Mは携帯電話を手に取り、部屋を出る。台所の曇りガラスにMの頭が映ったのだが、どうやらどこかに電話しているようだ。
Mが出て行くと、部屋は急に静かになる。音といえば、冷蔵庫のファンの音や、外を走る車の音くらいで、雑多な静寂がこの部屋を満たしていた。
こう静かだと、瞼が重くなってくる。ふぅっと身体の力が抜けていく。すると、面白いほどに高速で意識が落ちていく。最後に見たのは、部屋に入ってくるMの姿だった。
深海へと昇っていく。辿り着くのはやはりあの海底。
うみぞこのくじらは歌う。暗い深海を歌い上げる。
私はその姿に、畏怖と哀愁のようなものを感じる。うみぞこのくじらを見下ろしながら、ただ流れのない深海に漂う。
海底の砂漠には、生き物の気配は感じられない。だけど、うみぞこのくじらの周りだけは違う。あそこにはむせ返るほどの生命の息吹が感じられる。当のうみぞこのくじらはもう既に死体の類であるというのに、あそこだけはその死体をむさぼり食う海底の化け物たちでごった返している。
――ふと、うみぞこのくじらの歌に混じって、声が聞こえた。
『……いつなんですけど……なりませ……』
『……のバイトの……さん……君……あいだったんだ……』
聞き覚えのある声だ。どこで聞いたのだろうか。歌に掻き消されるほど小さな声だが、それでも断片的な会話が私の耳に届く。
『夢……の……だね……そうい……詳しい人を……』
ダメだ。これ以上は聞き取れない。それより、先ほどからうみぞこのくじらの歌がより強く、大きくなっている。まるで怒るように、猛るように。
うみぞこのくじらに吸い込まれる。大きな口に、飲み込まれる。逃げようとした獲物を飲み込む為に、うみぞこのくじらはその死に体を動かす。
やがて夢を見ていたという意識すら曖昧になる。残っていたのは、酒を飲んで倒れた時のような酩酊感と、何もない暗闇だけだ。
その昔、いつの頃だったか、暗闇に付いて考えたことがある。それがつい最近だったのか一億年ほど前だったのか、忘れてしまった。あの時、人間はある種の物理的な進化によってしか暗闇を克服はできないという結論に達した。しかし、これはまた別だった。
暗闇なのに、そこに何があるのか手に掴むように分かる。感覚器は何も捉えていないのに、何もかもが手に取るように分かるという矛盾。
それは、この暗闇の中には何もかもがないという証拠であった。目に見えないものですら存在しない暗闇。即ち虚無。原始の宇宙と呼ばれるそれに似たモノだ。そこでは、感覚器など必要がない。何もないのだから、情報を受け取る為のモノなど無意味だ。
そして、この虚無は真理と同義であった。そして、私もまたその虚無と同義である。だから、私はこの暗闇に何もないただの虚無だと直感できた。
この暗闇に恐怖は感じない。だって、何もないのだから。私はこの虚無の同質化し、ただ漂うだけだ。
『……い、心音がっ!』
ふと、その虚無の中にすらその音は響いてきた。
やっぱり聞き覚えのある声だ。
『だいじょ……すぐ引き上げ……』
こっちは聞き覚えがない声だ。女の子の様な、年老いた老婆のような、そんな声だ。
暗闇の中、確かに聞こえる声。そして、暗闇の中に突然現われた光。それは、海底から見上げた月のように見えた。その月から差し出されるのは、小さな白い手だった。
その小さな白い手を見た時、私はそれが何だか分からなかった。だけれど、この白い手を掴むかどうか、それが私の将来を決める気がした。
私はその手を――。