貴女と冬の風
ふと呟いた。彼女の隣で。
彼女と言っても、別に恋愛感情を含んだ意味ではない。単純に三人称としての彼女であるが、そこに僕自身の感情を上乗せするかどうかは置いておいて。
セックスの方はと言えば、性別を表す単語ではなく、不純な異性の交遊的な意味を持つソレである。十八歳という青春真っ盛りな僕にとって、その言葉は夢に溢れ、また刺激も強い。それをそのまま口にするのに普段は割と勇気を使うものだが、どろりと流れるように出た単語は、いつものような羞恥心を含んではおらず、言葉に特別な抑揚もなかった。自然と口から出た、と言うのが一番正しい表現だと思う。しかしながら、こんな言葉が自然と出る口が正気でない事は確かだった。正気ではないが、僕は至って真面目に、そう呟いていた。
「まぐわいたい」
「二回目」
彼女は言葉の意味ではなく、その回数に口を挟んだ。ええ、単語の意味という概念においては二回目です。二回目も僕は至ってふざける事無く真面目にその言葉を呟いた。一度目と異なったのは、多少彼女の顔色を伺ったくらいか。
「したいのなら、すればいいじゃない」
「簡単に言いますね貴女」
「このご時勢、何でもあるわよ。風俗に出会い系」
彼女は恥ずかしがるでもなく、しかし幸いなことに冷めた態度になることもなく、さっと自分の携帯電話をポケットから取り出した。至って普通に、当然のように。恐らく、そういった関係を持つのに手段さえ選ばなければすぐに至れると言いたいのだろう。
耳に残った彼女の声は、ねっとりと這うように頭の中へと進入してきた。一瞬ぐらりと世界が歪み、チカチカとした光が目の横を走る。声は、脳みそのどこかを焦がしたようだった。
「そういう、アレじゃ、ない」
別に衛星中継で繋がっている訳ではないのに、口と言葉は距離を置いて動いた。その姿を二文字で表せば、滑稽である。一人衛星中継中(不思議な語感だ)の僕を、先ほどの辛うじて連なった発言の説明を求める視線でじっと彼女は見つめる。標準より少し大きめで二重のぱっちりとした目で見つめられるのは、嫌な気分ではない。いや多分、目の大きさに関わらず。そういえば、彼女には以前睫の長さを褒められた。何でも、女性より男性のほうが睫が長い人のほうが多いそうだと、彼女は言っていた。女性のほうがそういった部分に美を求めるけれど、男性の方が優れてしまうのだとしたら神様は酷いことをするものだと思ったものだ。
思考がずれた。
「人との交わりって、大切だと思わないかい」
「それって答えになってないわよね?」
ばっさりと返答を切り捨てられる。うーん、僕からしたら百点満点の返答だったというのに。彼女にこの微妙なニュアンスを理解して頂くにはどうしたものか。首の後ろを軽く掻きながら、有りもしない言葉を捜して目線を泳がす。うーん。恥ずかしがらずに出ておいで、僕の語彙力。
「相手が必要なら、それを入手する手段を用いて実行すれば良いだけでしょう?」
確かに、最もだ。相手がいないなら、調達すれば良いじゃない。どこかの王妃の台詞のようだ。彼女の言う手段っていうのは、その手に持つ携帯電話を使用して見ず知らずの人と出会ったり、玄人の待つお店へ向かうという事だ。確かに交わりという言葉だけに重点を置くならば、彼女の言う事は全く間違っていない。その為に用意された相手がいる。
「否定はしないけど」
そういった意味では。でもそういう意味じゃなくて、
「私としたいの?」
「ば」
後に続く言葉はなんだろう、ヒントは僕の頭。
思考回路がまるで伝わっていたようなタイミングで平然と言ってのけた彼女は、口を閉じ切れずにいる僕の顔を一瞥すると、今度は空に向かって大きく息を吸い、それと同じか少し多いくらいの量の息を世界に戻した。キャッチアンドリリース。今流行りのエコってやつだな。成分は変わってしまってるようだけど。
初めに口から流れ出て宙を舞った言葉の行き先が彼女かといえば、真実ではない。それは本当にただ宙を舞っただけだ。本当に。ツンと刺激する冬の風と共に。
「寂しいのね」
正面を向いて僕を視界に入れないまま、今度は彼女がぼそりと呟いた。彼女がぼそりと呟いたそれは、恐らく彼女自身が思っていた以上に僕にとってはエネルギーを帯びた言葉だった。言の葉というのは、本人から発せられた瞬間から相手の耳から脳へ伝わる間に、きっと無数の膜の様なものを纏う。これはウィルスのようなもので、この膜によって言葉の発信者と受信者での意味合いの取り方の違いが生まれるのだ。プラスにもマイナスにも。だから、時として本来発信者が言わんとした言葉の持つエネルギー以上のものを、受信者が受け取ることがある。それが今、この時僕が受けた言葉の衝撃で――まあ、妄想はここまでにして。
「冬だから、かな」
本音と嘘の間。どこが本音でどこが嘘かは特定しないけれど。
「人と交わることは大切、なんだっけ?」
彼女はそう言うと、半歩僕に近寄り僕の右手を握った。表情は伺えないが、歩調が少し速くなったような気がする。そういえば、以前手をつなぐとその手の繋いだ箇所が細胞レベルで混ざり合うという話を耳にしたことがある。確かな話かどうかは判らない。しかし、空気よりも冷たく感じる彼女の手のひらに恐らく僕の手は暖かく伝わっているのだろう。
「こういうアレじゃ、ない?」
ふふっと軽やかに、数分前の僕の発言を真似る。今度はこちらをきちんと見ながら、にんやりと笑っていた。勝てない、と悟る。何がというわけではない。単純に、この人には。
すうっと鼻から息を吸い込むと、刺すような冷たさの冬が肺を一杯にし、温もりに溶けた。