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サルバドール
サルバドール
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いつか見た風景・第1章

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お父さん、と声をかけられたような気がして、浦澤は後ろを振り返った。しかし、誰も居なかった。当り前だ。こんなところに卓也がいるはずがない。しんみりとしたトリスバーには、浦澤と彼の愛人と初老のマスターがいるだけである。浦澤はカウンターの方に視線を戻し、また例の症状が始まったと思って自嘲気味に笑った。

どうしたの? 煙草を燻らせる浦澤の耳元で女が囁く。熱のこもった吐息を鼓膜に感じて、浦澤は深く息を吐く。煙が渦を巻きながら天井に吸い込まれていく。浦澤は煙草の先端を灰皿に押し付け、グラスを手前に引き寄せた。中に残っている玲瓏とした液体を舐め、カウンターの向こうにいるマスターに目配せする。棚の中には、ありとあらゆる年代の酒が隙間なく並べられている。初老のマスターは、その中からマッカランの12年物を取り出して、グラスの中に注いだ。浦澤はグラスを受け取り、掌の上で転がしはじめた。動かすたびに茶色の液体がゆらゆらと揺れる。グラスの縁を指でなぞってから、液体を咽喉に流し込む。芳醇な香りが鼻孔に拡がり、食道から胃にかけて灯りが灯ったように熱くなる。新しい煙草に火を付け、煙を一気に吸い込む。ニコチンとアルコールが身体の中で溶け合って滞留する。熱い空気の膜が何層も連なっているように感じる。耳元で女が喋り続けている。店の中は、吐き出される煙草の煙と女の喋り声とで熱気を孕んでいる。マスターの額には大粒の汗が虫のように張り付いている。汗の流れ落ちるスピードと女の喋るスピードは大体同じくらいだ。

「信じてくれないかもしれないけど、わたしはね、幼い頃、もう一人の自分と会ったことがあるのよ」
「その話は何度も聞いたよ。ドッペルゲンガーってやつだろ?」
「違うわよ。あなたって人の話を聞いているようで聞いていないのね」
「この世の中には自分に似た人間が4人はいるっていうぜ」
「わたしが言っているのはそういう話じゃないわ。もっとね、高尚な話よ」
「まさか、君から高尚な話を聞けるとはな」
「酷い。馬鹿にしてるの?」
「そんなつもりはないけどさ」
「馬鹿にしてるわよ。さっきだって笑っていたじゃない」
「あれは、君がおかしくて笑ったんじゃない」
「じゃあ、何よ?」
「くだらなすぎて教える理由がないよ」

外は雨が降っているのか、水圧の弱いシャワーみたいな音が微かに聞こえてくる。女の喋り声と雨音は奇妙にシンクロして不快なリズムを這わせる。女は耳元で囁くように喋っていて、浦澤はワイングラス越しに彼女を見ている。女の口元には小さな黒子があり、唇が動くたびに小さく上下する。ブラックライトから投げかけられた照明がグラスの縁で屈折して女の唇に伸びている。唇には薄いピンクのルージュが引いてあって、上唇の部分に白い光の点を集めている。ワイングラス越しに見ても、女の唇は分厚いと分かる。唇の厚い女はフェラチオが上手いというのは根拠のない迷信だが、この女は本当にフェラチオが上手い。少なくとも、妻の加奈子よりも上手いと浦澤は思っている。

女の名前は明菜という。浦澤と同じ会社で働く人間で、総務課に所属している。彼との関係は3年前から始まった。声を掛けたのは明菜の方だ。もっとも、彼女はそれ以上前から浦澤に色目を使っていたが、彼の潔癖主義が壁となって尾を引いていて、長い間、男女関係には発展しなかった。壁が打ち破られたのは、浦澤の息子が死んで一か月ほど経った頃である。息子の死後、浦澤は極度の神経衰弱に陥り、会社からも家庭からも疎外された存在となっていた。その彼を明菜が籠絡したのである。最初のセックスは会社のトイレで行われた。浦澤の潔癖主義は明菜のフェラチオの前に脆くも壊れ、2人は盛りのついた犬のように激しく身体を求め合った。それが引き金となり、彼らの間に上司と部下という関係を超えた不潔な関係が生まれた。爾来、逢瀬を交わしてはセックスするという日常が惰性的に繰り返され、浦澤が新潟支社に移った今でもそれは続いている。

「わたしの家はね、小さい頃、物凄く貧乏だったの」
「その話も前に聞いたよ」
「話の腰を折らないで」
「君のところは確か母子家庭だったよな。親父さんが事業で失敗して借金を作り、蒸発した。それで残された君たちが尻拭いをさせられる羽目になって……」
「そうそう。酷い父親だったわ。指に火を灯すっていうの? そういう生活がずっと続いたの」
「爪に火を灯す、だろ。指に火を灯したら熱くてたまらない」
「細かいことはどうでもいいじゃない。とにかくわたしは、凄く貧乏だったの。こんな生活から抜け出したい、お金持ちになりたいってずーっと思ってたわ」
「野心を持つことは良いことだ」
「野心なのかしらね。小さい子供にとっては、ただの願望でしかなかったと思うわ。そういうのを神様がちゃんと見てくれていて、わたしは彼女に会うことができたんじゃないかって。そんな風に思っているの」
「彼女って例のもう一人の自分か?」
「そうよ」
「何か釈然としない話だな。何度も言うけど、この世の中には自分と似た人間が4人は居て、その一人に偶々会えたってだけの話なんじゃないかな」
「だから、違うわよ。他人のそら似なんかじゃない。あれは本当にわたしだったわ」

明菜はグラスに注がれたカクテルで咽喉を湿らせてから、言葉を継いだ。

「家の裏手にある森を超えたところに別の世界があってね、そこにもう一人のわたしが住んでいたの」
「それは興味深い話だな」
「何度もしている話よ。その世界ではね、わたしの家はものすごくお金持ちで、わたしは広い庭とプールに囲まれた家に住んでいてグレートデンと戯れているの。それをお父さんとお母さんが微笑ましげに見ていて、とても幸せそうなの」
「君が言っているのは、つまり、並行世界だよな」
「並行世界って?」
「パラレルワールドっていうのを聞いたことはないか? SFの世界でよく使われるネタなんだけど、宇宙には複数の世界線が同時に存在しているっていう例のアレさ。君が見たのは、別の世界に生きるもう一人の自分だった。貧乏で爪に火を灯すような生活を強いられている自分とは対照的な、もう一人の自分」
「多分、そういうことだと思うわ」
「それで、もう一人の自分に会って、君はどうしたの?」
「それに答える前にあなたに聞きたいんだけど、もし、もう一人の自分に会えることができたら、あなたはどうする?」
「その自分っていうのは、君が言ったように、自分が置かれているよりも良い境遇に置かれている自分ってことかな? 要するに、自分よりも幸せな自分」
「そういうこと」
「難しい質問だな」
「いいから答えて」