秋刀魚の味
サインをしてやると、男は深々と頭を下げてトラックまで足早に向かった。ダンボールを抱え、よろけながら部屋まで戻った。自分なんかにこんなものを送ってくれる者は誰だろうと思いながら、伝票に目をやった。送り主は娘だった。ダンボールを開けてみると、タッパーに入った食べ物や手編みのセーターなどが出てきた。その中に、これみよがしという感じで一枚のDVDが添えられていた。ケースに貼られたラベルには「お父さんへ」という文字が油性のマジックで走り書きされている。すぐにケースからDVDを取り出して、デッキに挿入し、再生ボタンを押した。暗い画が数秒続いた後で、画面が次第に色彩を帯びていき、クリーム色の綺麗な壁紙をバックにして一人の若い女性が映り込んだ。肩まで伸びた髪にパーマをかけた麗しい女性で、若い頃の妻によく似ていた。マンションの一室か何処かで撮影しているのだろう、女性は、側にいるかと思われる誰かに「これでいいんだよね?」と確認してから、前方のカメラに向かって喋り始めた。
「ええっと、お父さん。久しぶり。誰だか分かる? 分かんないよね。だって、20年も会ってないんだもの。正解は私だよ、私。あなたの一人娘の路子。あんな子供が20年も経ったら、こんな感じになっちゃいました。どう? 美人でしょ? うん、よく言われる。私、勉強とかからっきしダメだけど、こういう才能だけはお母さんからしっかり引きついじゃったみたいでさ、モテてモテて困るわけよ。もう今までの恋愛なんてハンパなくて……ってそんな話どうでもいいか。これを見ているってことは、荷物がちゃんと届いたってことだよね? だとしたら、安心。今までは手紙だけのやりとりだったからさ、それだけじゃ素っ気ないと思って送っちゃった。元気してる? そっちは寒いでしょ? 私、お父さんがこの寒さで死んじゃってないかって思ってさ……あ、ああゴメン、今のは冗談で。ずっと一人で暮らしてるって聞いてたから、私、心配でさ、何か少しでも助けになればいいなと思ってさ。荷物見てくれた? 色々入っててビックリしたでしょ? 中に入っている物、一応説明しとくね」
娘は自分の周りに色々な物を並べて説明を始めた。
「これは、セーターとマフラー。もちろん、この私が編みましたよ、愛情かけて。寒いから、これ着てしっかり防寒してよね。それから、これは煮物と私が漬けた漬物。お母さんの味を再現してみせたつもりだけどさ、美味しかったらご愛嬌ってことで。これ食べてしっかり栄養つけて。カップラーメンとかばっかり食べてちゃダメだよ。それから……」
娘は一本のビデオテープを取り出し、ラベル面をこちらに示して胸の前で掲げた。ラベルには「秋刀魚の味」と縦書きで書かれてある。その昔買った映画のビデオだった。
「じゃーん、これ何だか分かる? 私、馬鹿だから、何て読むのか分かんないけど、お父さん、昔、これよく観てたよね? お母さんの部屋を掃除している時にさ、出てきたんだ。お父さん、お母さんと別れる時にこれ忘れていったんじゃない? お父さん、この映画、すごい好きだったからさ、喜んでくれるんじゃないかと思って、ついでに荷物の中に入れといた。ね、私って気が利く娘でしょ? 」
立て板に水を打ったように喋る娘を、側にいる誰かがたしなめた。お前は喋りすぎだということを言ったのだろう、娘は膨れた面になって、「分かってますよーだ」と子供みたいに呟いた。そして、カメラの方に視線を戻して、今度は神妙な顔になった。
「……最後にさ、お父さんに紹介したい人がいるんだ」
そう言うと、娘はフレームの外にいる誰かを手招きした。画像が一瞬だけブレたかと思うと、画面の左側から男が姿を現した。年の頃は娘と同じくらいの、ハンサムな男だった。男は頭に手をやってはにかみながら、こちらに会釈した。
「私の彼氏。どう? 超カッコイイでしょ? 私ね、彼とこの春に結婚することにしたんだ。こんな形で報告することになっちゃってゴメン。でも、近いうちにお父さんには直接、挨拶に行くつもり。お父さんにも、結婚式に出てもらいたいからさ。だから、待っててよ? こいつ連れて、絶対そっちに行くからね」
「誰がこいつだよ」と彼氏が言い返して微笑ましいやりとりが続いた後で、娘は「じゃあね、お父さん」と言ってカメラのスイッチを切った。私は涙を拭いながら、ダンボールの底に手を突っ込み、一本のビデオテープを取り出した。昔、擦り切れるほどに観たビデオをデッキの中に差し込むと、荒々しい画像と共に映画が始まった。それから二時間あまり、私はテレビ画面の前に釘付けになった。岩下志麻扮する路子が父親に礼を述べるシーンになると、また昔のように泣いてしまった。
死のうと思ったことが三度ある。一度目は大学受験に失敗した時。二度目は会社が倒産した時。そして、三度目は、今までの人生に誇りを持てなくなり、これからの人生に希望を見出せなくなった時。つまり、今だ。だが、今の私には死のうという気持ちはない。美しく成長した娘を見て、もう少しだけ生きてみようと思った。