美しの森物語
秋の陽が落ちて薄暗くなった町内の路地を、博司は小走りに集会所へと急いだ。 集会所の広場からは、笛と太鼓の音が聞こえてきた。
その中に加わった博司は、広場のブランコの横で笛を吹いている昭夫と目があった。
「ごめん。 仕事で遅くなっちゃった。」
博司は今まで綾子とデートしていた事を昭夫に隠した。
街のはずれの美女ヶ森には大御食(おおみけ)神社がある。
その昔、日本武尊がこの地で、里の長赤須彦から接待を受けられたお礼に尊から大御食の名を賜ったという由緒のある神社だ。
そして秋祭には毎年獅子行列を奉納するならわしで、今日は祭りの笛の 初稽古なのだ。 祭りは魔除けの獅子を、機嫌を取りながら神前まで曳いて、最後に獅子の頭(かしら)を切り取って奉納するという大掛かりなものだ。
行列は、六つある地区が毎年交代で行い、今年は博司と昭夫の町内が 年番だ。
六年前、中学生の博司は唐傘を持って舞う「傘打ち」という役で出た。また最初の時には「獅子招き」という、むずかる獅子をあやす役だった。
幼児には紅白の綱を引く「獅子引き」が、少年少女達には「獅子切り」 「榊持ち」等の役がある。 また青年達は、おかめ,ひょっとこ,恵比寿,大黒,天狗といった獅子の機嫌を取る役と、獅子頭を操る、力の要る役だ。 青年と大人たちは笛太鼓の「お囃子」の役。 それに役員が加わり、隣組長も角燈籠を持って警護の役を受け持つ。
今年の博司は昭夫と笛を吹くことにした。 他は体力に自信が無かった。練習はひと休みとなり、二人は草むらに腰を降ろした。 初秋の夜風が 気持ちいい。
「中学生の時の、きよ子さんの舞姿が… 」
博司は言いかけて止めた。 前にも この話しで気まずくなった事があったからだ。
毎年美女ヶ森のお祭りになると、初恋のきよ子さんが神殿で「浦安の舞」を舞う姿を思い出すのだった。 暗い境内の神楽殿の、裸電球の光りに浮かんだ巫女姿は眩しく美しかった。
昭夫は博司の声が聞こえないふりをして、言葉を返した。
「おまえ、綾ちゃんと東京へ行って来たんだってな、何をしに行ったんだ?」
「たまたま同じバスになったんだ。彼女はピアノのレッスンで 俺は調律の講習会だよ。」
博司は むきになって応えた。
二人と同じ高校で三つ先輩の憧れの綾子は、隣町の神主の娘でピアノ教室を開いている。 調律師をしている博司にとって初めての依頼者だった。だから昭夫が綾子のことを『綾ちゃん』と気安く言うのが少し憎らしかった。 それでも「今まで彼女と会っていた」とは言えなかった。 博司と昭夫は 幼稚園から一緒でお互い気心知れた仲だが、何かとライバルなのだ。
初日の練習は早々に終り、顔合わせの席には酒が出された。 顔なじみの役員の紹介と型通りの挨拶が終わると町内会長の音頭で乾杯、すぐに無礼講となった。
「はい、ご苦労さん、頼むよ。頼むよ。」
今年の総々代で土建屋の佐藤さんが、まるで自分の仕事を頼むように一升瓶を持って回って来た。その言葉に博司は『俺は人に頼まれて笛を吹くのじゃない』と反発していた。
今度は地区総代の小池さんが缶ビールとつまみの袋を配りながら高飛車に言った。
「おい、どうした。仕事が忙しいのか、遅れて来て。あと二ヶ月無いんだ。 本番頼んだよ。今年の笛は大丈夫か。」
すると、博司の後ろから声がした。
「心配いらんよ。いつもうち等は粒がそろっているから。」
笛の師匠の横田さんが 言い返した。そして茶わん酒を飲み干して立ち上がった。
「帰るんですか。」
「うん、長居は無用だ。またな。」
何か不機嫌そうだった。昭夫も
「おい、帰ろうか。」
と声をかけて来た。そして二人は集会所を後にした。
街灯の裸電球が、博司に またきよ子のことを 思い出させた。
次の日曜日、博司は高原の湖のほとりの喫茶店で綾子から先日の話しの続きを聞いた。
「西行さんが此処の土地に来ているって言ったこと、本当なのよ。」
博司は西行法師についてあまり知らないが、知ったかぶりして言った。
「ふうん、そうなんだ。 願わくは花のもとにて春死なん、そのきさらぎのもちづきの頃、って、死に際に詠んだんだってね。 昔は二月に桜が咲いたのかな。」
「博司くん、その時の如月って旧暦なのよ、それに死に際じゃ… 」
そう言いかけて綾子は止めたが、またすぐに話しを続けた。
「…疲れちゃう。それよりね、この間ね、大学の教授が来たのよ、父のところに。
西行法師の研究をしているんですって、その先生。
菅江眞澄
すがえますみ
って知ってる? 江戸時代の人よ。全国を旅しててね、江戸時代に三内丸山遺跡なんかも見ていて記録している人なんだって。 信州にも何回か来ているみたいよ、光前寺にも来ているみたいね。
その菅江眞澄の随筆に『西行法師が大御食神社の神主さんの所に立ち寄って、書いたものを残している』という話しが紹介されてるの。
教授はその西行さんの書いたものを見たい、と言って来たのよ。」
博司もその書が見たいと思った。 綾子が楽しそうに話してくれる事だから 尚更だ。
「それでいつ見るの」
「もう来て見たわ。でもね、その後が大変だったのよ。どうして我々に黙って見せたんだって、総代さん達が父を責めたのよ。馬鹿みたいでしょ。ほんとの話しなのよ。」
博司はすぐには事情が飲み込めなかった。
「私の家は隣町でしょ、大御食神社には神主が居ないから父が掛け持ちでやっているのだけど、よその人が勝手に宝物を出して、しかも外部の人に 見せたのがいけないんだって。総代さんの中には、土足で 座敷に上がられたようだ、とまで言う人もいたわ。
ひどいでしょ、誇らしい事なのにね。どうしてかしら、理解出来ないでしょ。」
綾子は同意を求める様に、博司の目を見つめた。博司は戸惑った。だが、綾子が話してくれたことが嬉しかった。まだ三度目のデートなのに、心の中を見せてくれた様に思えた。
でも何故、研究者に西行の書を見せた事を怒ったんだろうか。価値が分からないのだろうか。それとも何か見せたら困る事でも有るのだろうか。博司は聞いた。
「大御食神社に宮司さんて何故いないの?お宮の前の家は代々の神主さんの家でしょ?」
綾子は少し困った顔をして『あまり詳しくは分からないけど』と話し出した。
「大御食神社は代々世襲で神職を継いできたお宮なのだけどね。
先代の神主さんが亡くなった時、跡取りがすぐには帰って来なかったの。 それで家を何年も留守にしたのね。
それから随分たって息子さんが定年になる時に、今度は神主の職を継ぐからと言って来たの。そしたら今度は総代さん達が『返さない』って反対したのよ。 『今更何を言うんだ!』って。 『今までお宮を守ってきたのは我々だ!』 って、申し出を拒否したのよ。 ひどい話しでしょう。
お父さんが言っていたわ。 みんな 欲があるからだって。 みんな俗人なんだって。」
博司は益々混乱して来た。 分からないことばかりだ。 何か不思議の扉が開いた気がした。
ひとしきり話すと綾子はレッスンが有るからと、先に帰った。
その中に加わった博司は、広場のブランコの横で笛を吹いている昭夫と目があった。
「ごめん。 仕事で遅くなっちゃった。」
博司は今まで綾子とデートしていた事を昭夫に隠した。
街のはずれの美女ヶ森には大御食(おおみけ)神社がある。
その昔、日本武尊がこの地で、里の長赤須彦から接待を受けられたお礼に尊から大御食の名を賜ったという由緒のある神社だ。
そして秋祭には毎年獅子行列を奉納するならわしで、今日は祭りの笛の 初稽古なのだ。 祭りは魔除けの獅子を、機嫌を取りながら神前まで曳いて、最後に獅子の頭(かしら)を切り取って奉納するという大掛かりなものだ。
行列は、六つある地区が毎年交代で行い、今年は博司と昭夫の町内が 年番だ。
六年前、中学生の博司は唐傘を持って舞う「傘打ち」という役で出た。また最初の時には「獅子招き」という、むずかる獅子をあやす役だった。
幼児には紅白の綱を引く「獅子引き」が、少年少女達には「獅子切り」 「榊持ち」等の役がある。 また青年達は、おかめ,ひょっとこ,恵比寿,大黒,天狗といった獅子の機嫌を取る役と、獅子頭を操る、力の要る役だ。 青年と大人たちは笛太鼓の「お囃子」の役。 それに役員が加わり、隣組長も角燈籠を持って警護の役を受け持つ。
今年の博司は昭夫と笛を吹くことにした。 他は体力に自信が無かった。練習はひと休みとなり、二人は草むらに腰を降ろした。 初秋の夜風が 気持ちいい。
「中学生の時の、きよ子さんの舞姿が… 」
博司は言いかけて止めた。 前にも この話しで気まずくなった事があったからだ。
毎年美女ヶ森のお祭りになると、初恋のきよ子さんが神殿で「浦安の舞」を舞う姿を思い出すのだった。 暗い境内の神楽殿の、裸電球の光りに浮かんだ巫女姿は眩しく美しかった。
昭夫は博司の声が聞こえないふりをして、言葉を返した。
「おまえ、綾ちゃんと東京へ行って来たんだってな、何をしに行ったんだ?」
「たまたま同じバスになったんだ。彼女はピアノのレッスンで 俺は調律の講習会だよ。」
博司は むきになって応えた。
二人と同じ高校で三つ先輩の憧れの綾子は、隣町の神主の娘でピアノ教室を開いている。 調律師をしている博司にとって初めての依頼者だった。だから昭夫が綾子のことを『綾ちゃん』と気安く言うのが少し憎らしかった。 それでも「今まで彼女と会っていた」とは言えなかった。 博司と昭夫は 幼稚園から一緒でお互い気心知れた仲だが、何かとライバルなのだ。
初日の練習は早々に終り、顔合わせの席には酒が出された。 顔なじみの役員の紹介と型通りの挨拶が終わると町内会長の音頭で乾杯、すぐに無礼講となった。
「はい、ご苦労さん、頼むよ。頼むよ。」
今年の総々代で土建屋の佐藤さんが、まるで自分の仕事を頼むように一升瓶を持って回って来た。その言葉に博司は『俺は人に頼まれて笛を吹くのじゃない』と反発していた。
今度は地区総代の小池さんが缶ビールとつまみの袋を配りながら高飛車に言った。
「おい、どうした。仕事が忙しいのか、遅れて来て。あと二ヶ月無いんだ。 本番頼んだよ。今年の笛は大丈夫か。」
すると、博司の後ろから声がした。
「心配いらんよ。いつもうち等は粒がそろっているから。」
笛の師匠の横田さんが 言い返した。そして茶わん酒を飲み干して立ち上がった。
「帰るんですか。」
「うん、長居は無用だ。またな。」
何か不機嫌そうだった。昭夫も
「おい、帰ろうか。」
と声をかけて来た。そして二人は集会所を後にした。
街灯の裸電球が、博司に またきよ子のことを 思い出させた。
次の日曜日、博司は高原の湖のほとりの喫茶店で綾子から先日の話しの続きを聞いた。
「西行さんが此処の土地に来ているって言ったこと、本当なのよ。」
博司は西行法師についてあまり知らないが、知ったかぶりして言った。
「ふうん、そうなんだ。 願わくは花のもとにて春死なん、そのきさらぎのもちづきの頃、って、死に際に詠んだんだってね。 昔は二月に桜が咲いたのかな。」
「博司くん、その時の如月って旧暦なのよ、それに死に際じゃ… 」
そう言いかけて綾子は止めたが、またすぐに話しを続けた。
「…疲れちゃう。それよりね、この間ね、大学の教授が来たのよ、父のところに。
西行法師の研究をしているんですって、その先生。
菅江眞澄
すがえますみ
って知ってる? 江戸時代の人よ。全国を旅しててね、江戸時代に三内丸山遺跡なんかも見ていて記録している人なんだって。 信州にも何回か来ているみたいよ、光前寺にも来ているみたいね。
その菅江眞澄の随筆に『西行法師が大御食神社の神主さんの所に立ち寄って、書いたものを残している』という話しが紹介されてるの。
教授はその西行さんの書いたものを見たい、と言って来たのよ。」
博司もその書が見たいと思った。 綾子が楽しそうに話してくれる事だから 尚更だ。
「それでいつ見るの」
「もう来て見たわ。でもね、その後が大変だったのよ。どうして我々に黙って見せたんだって、総代さん達が父を責めたのよ。馬鹿みたいでしょ。ほんとの話しなのよ。」
博司はすぐには事情が飲み込めなかった。
「私の家は隣町でしょ、大御食神社には神主が居ないから父が掛け持ちでやっているのだけど、よその人が勝手に宝物を出して、しかも外部の人に 見せたのがいけないんだって。総代さんの中には、土足で 座敷に上がられたようだ、とまで言う人もいたわ。
ひどいでしょ、誇らしい事なのにね。どうしてかしら、理解出来ないでしょ。」
綾子は同意を求める様に、博司の目を見つめた。博司は戸惑った。だが、綾子が話してくれたことが嬉しかった。まだ三度目のデートなのに、心の中を見せてくれた様に思えた。
でも何故、研究者に西行の書を見せた事を怒ったんだろうか。価値が分からないのだろうか。それとも何か見せたら困る事でも有るのだろうか。博司は聞いた。
「大御食神社に宮司さんて何故いないの?お宮の前の家は代々の神主さんの家でしょ?」
綾子は少し困った顔をして『あまり詳しくは分からないけど』と話し出した。
「大御食神社は代々世襲で神職を継いできたお宮なのだけどね。
先代の神主さんが亡くなった時、跡取りがすぐには帰って来なかったの。 それで家を何年も留守にしたのね。
それから随分たって息子さんが定年になる時に、今度は神主の職を継ぐからと言って来たの。そしたら今度は総代さん達が『返さない』って反対したのよ。 『今更何を言うんだ!』って。 『今までお宮を守ってきたのは我々だ!』 って、申し出を拒否したのよ。 ひどい話しでしょう。
お父さんが言っていたわ。 みんな 欲があるからだって。 みんな俗人なんだって。」
博司は益々混乱して来た。 分からないことばかりだ。 何か不思議の扉が開いた気がした。
ひとしきり話すと綾子はレッスンが有るからと、先に帰った。