花は古れども
繰り返し思い出す景色がある。
駅を降りて橋を渡り、古びた商店街を抜けて、閑静な住宅街の先にある小高い丘、ゆるやかな坂道の天辺に聳える緑豊かな校舎。
遅刻ギリギリで門をくぐれば、花の頃を過ぎた桜の樹が、心地よさ気に葉擦れの音を立てている。
学年が上がって、新しい教室から海が見えるとはしゃいだのはいつのことだったろう。
カーテンを閉め切った部屋のベッドで、眠ろうとしても眠れず、何度もそんな夢を見た。
だが夢とは裏腹に、新学期のクラス替えでエスカレーターに乗り遅れてしまってからは、もうあっという間だった。
いつの間にか少女の不在がクラスにとって当たり前になって、家から出られないでいるうちに春の体育祭も中間試験も終わっていた。
これではいけないと彼女自身があせり始めたのは、夏の気配の濃くなった5月の終わり。
もうすぐ合唱祭もありますし、精一杯サポートしますから、そう微笑んだ担任の言葉に嘘はなかったが、一歩教室に入ればすべてが手遅れなのだと悟るのに時間はかからない。
必死に笑顔を繕った甲斐あって、どうにか合唱祭の舞台を乗り切ったその日の夜、少女は原因不明の体調不良を悪化させ、病院のベッドから起き上がれなくなってしまった。
ひと月も続けて学校に通えない肉体と精神を、両親はひどく嘆き、
(お前も苦しいだろう……しばらく休もうか)
蛍光灯に照らされて白い壁と床、それより白々しくも悲痛な慰めに、彼女は自分の限界を知った。
深い緑の黒板を軋ませて、白墨が何か文字を刻みながら滑っていく。
教科書を繰る音、シャーペンを動かす音、授業の進度は普段に比べると格段に遅く、それどころかほとんど自習に近い。
50分の授業時間は少女が瞬きするより早く過ぎて、小指の爪より小さな白い欠片が積もっては朽ちていくばかりだ。
起立、礼、と号令がかかって授業が終わり、担当教師が退出すると、すぐに終礼が始まった。
いつもならいつまでもおしゃべりが続いているのに、と無意識に思い浮かべた”いつも”のありさまは、しかしそこに座っていなければならなかった日々ほど彼女を苦しめなかった。
濃紺の冬制服の群れが言葉少なに清掃を済ませて帰って行くと、やがて教室は空っぽになる。
想像でしか近づけなかった、斜め上から見つめるしかなかったかつての居場所が、午後の光を静かに湛えて彼女の前に存在した。
思い切ってロッカーを飛び降りると、白い靴下と黒い上履きに包まれた足は記憶の通りに動かせた。
モップがぶつかるだけでへこんだロッカー、廊下側に鎮座する大きすぎるストーブ、古いテレビはノイズが酷くて……
けれど窓際の一番後ろ、目立たない位置にある自分の机に、級友たちが折った千代紙の鶴や花がぽつぽつと並べられているのを見て、人の心をどう受け止めればいいのかと途方に暮れる。
せめて手に取ろうとしても指は千代紙をすり抜けてしまい、どうしようもなさにため息がこぼれた。
その時、立て付けの悪い教室の引き戸がぎぎ、と鳴って、ひとりの冬制服の生徒がこっそり顔を覗かせた。
「……アヤメさん」
何気ないふうに呼びかける声は、親しくなりかけの友人を探すように気負いすぎて、それでも涙の名残を隠しきれない。
冬服の彼女は足音を忍ばせ、誰にも見えない夏服の少女がたたずむ机の前までやってくる。
「アヤメさん」
二度呼ばれて、夏服の少女――アヤメはようやくそれが自分の名前だと気づき、
『なぁに?』
と答えてしまった。
聞こえなかっただろうか、聞こえていたら大変だ。思わずうろたえると、冬服の少女は泣き笑いの表情で机の前にしゃがみこんだ。
「こんなところにいるワケはないと、思う、けど」
彼女には、呼びかけに耳を傾ける私の幻が見えているのかしら、そう考えたは良いが足が動かない。
「本当は、会えなくなってしまう前に、お礼を言いたかったんだ」
――同好会のメンバーが書いたお話を冊子に綴じて、図書室に置いてもらっていたんだけれど、あまり読んでくれる人がいなくて。
――むしろ、知り合いが物語を書いてるのを面白がって、作者探しをする人のほうが多くて。
――アヤメさん、読んでくれたの? 嬉しい! そう、桜色の表紙の……。
独白めいた彼女の言葉に、アヤメはようやく思い出した。
雨続きの放課後、確かに合唱祭の練習をエスケープしては図書室に逃げ込み、息をひそめて興味もない本を読んでいたことを。
なんとなく手に取った手作りらしき冊子を、気づけば夢中になって読んだ日があることを。
そして合唱祭の当日、学校が借り切ったコンサートホールの螺旋階段で、目の前の彼女と他愛ない話をしたことを。
気づかなかっただけで、本当は覚えていた。
「あの冊子の、第二号を作ったの」
そう言うと、彼女は折り紙の隙間に小さな冊子を置いた。
「アヤメさんが……面白いって、言ってくれたお話の、続きも載ってる……」
声は続かず、ぽろぽろ落ちる涙を紺色の袖口で抑える仕草に、慰めることができたらと甲斐ないことをアヤメは思う。
級友たちがそうしていたように、震える肩を抱くことも、ハンカチーフを差し出すことも、もうできない。
遠くないはずの日に好きになった物語は、目の前の彼女によって書かれたものだったのに。
あくび一つであきらめたはずの誰かが、見えない自分の名前を呼んでいるという現実に、目眩がする。
『……レコさん』
かつて何度か呼びかけた愛称は、案外簡単に見つかった。
お礼を言わねばならないのは、アヤメの方だった。
『素敵なお話を、ありがとう』
長雨の季節、放課後の図書室でめくった白狐の物語は、確かにアヤメのひりつく心を宥めてくれた。
それを投げ捨てて逃げた先、空っぽの教室で、彼女が涙を落とすのを見ているこの状況は、なんと皮肉な罰だろう。
『今まで、本当に……ありがとう。……でも』
――どうか悲しまないでください。
先ほどまでの投げやりな感情ではなく、心の底からそう願う。
触れられないのを承知で冬服の背をそっと撫でると、どうしてかとても温かい気がして、アヤメは流れないはずの雫を瞼の裏に感じた。
閑静な住宅街の外れ、海の見える小高い丘に建つ高校に、天使の歌声を模したチャイムが響く。
早く帰りなさい、と急かす声や、さよなら、と挨拶を交わしあう声にまぎれて、季節外れの白いセーラー服を着た少女が階段を下りていた。
家路を急ぐ生徒たちとともに、彼女はすっかり日が落ちた空を見上げながら歩いていたが、ふと桜の樹の下で足を止める。
やがて最後の生徒を見送ると、少女は名残惜しそうに校舎を振り返り、
『さようなら』
微笑みながら、降り始めた冷たい結晶に紛れて消えていった。
春の訪れはまだ遠く、誰かの泣く声はもう聞こえない。