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老婆の宝物

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『老婆の宝物』

 その老婆は白髪頭で背中は曲がり手もしわくちゃである。今にも命が尽きた古木のように倒れそうである。品の良い顔立ちをしているが、皺だらけの顔は山あり谷ありの人生であったことを示している。
数年前から、突然家族の前から姿を消すのを繰り返している。本人に言わせると旅をしているというが、家族は痴呆症にかかっているのではないかと心配している。物忘れは確かにひどいが痴呆症というところまではいっていない。
「でも、先生、突然、一人でふらりと家を出るんですよ。これは痴呆症によくある徘徊じゃありませんか?」と息子の嫁が言う。
 嫁は良い人だが、良い人という範疇から出ない人である。万事差し障りなくこなすという意味で。嫁はどうやら姑を痴呆症にかこつけて早く施設に入れたいようだ。

 老婆に話を聞いた。
「今まで必至に生きてきました。でも、ある日、気づいたら、取り返しできないほど衰えていました」
 悲しみと戸惑いが複雑に混じあった笑みを見せる。それは道に迷った幼子のように見える。
「夫はずっと前に死んでいます。私も死んでもいいんだけど、神様は簡単に死なせてくれません。何をしたらいいのか分からない白紙の時間が少し残されているんです。長い時間ではなく、ほんのちょっとだけ。ときどき、どう過ごせばいいのかが分からなって、旅をするんです。家にいても、何もすることがありませんから。ただ、ふらりと旅に出たくなるのです」と呟いた。
傍から見れば、幸せを絵に描いたような家庭であろう。三世代が同じ家に住んでいる。息子夫婦、息子夫婦の長男。争いも喧嘩もない穏やかな家庭である。どこからみても、欠点のない。しいてあげるとしたら、息子も、嫁も、その長男もみな忙しすぎて、誰も老婆に関心がないということぐらいだろう。だが、関心がないということがどんな意味を持つのかを、老婆の家族は知らない。関心がないということは、存在しなくともいいといっているのと同じなのだ。
「何もしなくていいと嫁が言うんですよ」と少女のようにはにかんだ。
 何もしなくてもいいというのは、誰からも必要とされていないということである。誰からも必要とされないということは、生きている価値がないと宣告しているようなものだろう。
「趣味はありませんが?」
 老婆は首を振った。
「もう死にたいんです。早くお迎えが来ないかと思っています」と老婆は微笑みながら言った。本心からだろう。

老婆が宝物を見せてくれた。それは古びて、もう茶色になりかけた写真である。ビニール袋の中に大切に肌身離さず持っている。結婚して子供が生まれた頃に撮った写真だ。夫と仲睦まじく寄り添い、そして生まれたての天使のような我が子を嬉しそうに抱いている。
 一番大切な時間がその写真の中に詰まっている。その写真を見せるとき、はまるで花も恥じらう乙女のような目をして、昨日の出来事のように話す。話を聞いているうちに切ない気持になる。ただ沈黙するだけ。

 半年後に老婆の訃報を聞いた。おそらく老婆は大切な写真とともに永遠の眠りについたのであろう。それもまた幸せな死であったといえるではないか。

作品名:老婆の宝物 作家名:楡井英夫