哀の川 第一章 始まり
第一章 なりそめ
「斉藤さん、困るんですよね!払って頂かないと。私が上司に叱られますから。お願いしますよ!」
「すみません。給料日まで待って下さい。今は払えませんから・・・」
「そんなこと解ってんだろう?先月もその前もそう言ってたじゃないのか!親に借りるなり、バイトするなりして稼げよ!甘えてんじゃないよ!」
取立て屋はきつい言葉で電話口に居た。会社まで掛かって来るから、斉藤は困り果てていた。自分が作った借金だが、金利が膨らみ知らぬ間に返済金額が借りた金額の二倍になってしまっていた。毎月の給料からではもう到底返せない状態で、翌月に繰越、また繰越で延滞利息が輪をかけ苦しめていた。始めは小さな金額だったが、返済のために別の金融会社で借りたりしてもうその金額は月20万の給料では到底返せるものではなくなっていた。
斉藤直樹、30歳、某輸入雑貨店に7年勤務。独身。バブル景気で世間が賑やかしい今、ファッションや付合いでディスコなど派手にお金を使っていたから、身分不相応な暮らしになっていた。一度だけと誘惑に負けて借金したのが、事の始まりだった。
「このままでは、会社にも知れてしまう・・・どうしよう」
さんざん悩んだ挙句、直樹は逃亡することを考え始めていた。親は貧しい暮らしをしているから、頼れないし、苦肉の作戦を強いられていたのだった。
「麻子、明日からアメリカに行って来るから、留守を頼むよ。帰りは一月後ぐらいの予定だ。私の居ない間はどこか旅行にでも出かけていなさい。純一も喜ぶだろうし」
「そうしますわ。気をつけて行ってらっしゃいませ」
中西功一郎、40歳、中西麻子、35歳、中西純一、10歳。
中西家の家族だ。86年ごろから経営コンサルタントとして独立した夫功一郎はバブル経済の影響を受けながら売上と自らの投資を増やしてきた。六本木にある事務所もその象徴だ。株の投資に関しては専門で得意先には多くの事業家や芸能人、麻子のようなマダムがたくさん居た。
金と共に手に入れた愛人とアメリカへ旅行するのだ。表向きはアメリカでの不動産買い付け。すでに二箇所紹介で買い付けていたが、さらなる紹介があり、その顧問と一緒に出かける手はずになっていた。顧問もまた愛人同伴なのだ。お互いに隠れ蓑として誘い合っていたのだ。夏休みに入っていた小学生の純一は、母麻子と北海道へ旅行することになった。初めて見る雄大な景色と気持ちよい涼しさに純一は心ウキウキしていた。
「ママ!牛が居るよ。アッ!あっちにも居る。凄いねえ」
「そうね、東京とは違うね。自然ってやっぱり素敵!」
「ママ!今度はパパとも一緒に来たいね。きっと楽しいよ」
「そうねえ、でもパパは忙しい人だから、無理でしょうね。純一が大きくなるころには少しは暇になっているかも知れないけど・・・」
麻子は、純一がパパと出かけたことがないのを慮った。結婚して11年。自分たち夫婦と家族って幸せなんだろうかと、ふと車窓を眺めていて感じていた。
毎月第三日曜日は直樹にとっては楽しみにしている日であった。ふと通りかかったビルの二階で垣間見た社交ダンスのレッスン光景。直樹には爺くさく感じられたが、目を引く綺麗な女性が居た。同じ年齢ぐらいであろうが、品が良く一際目立っていた。ふらふらとその色香にほだされて、事務所の扉を叩いてしまった。
「こんにちわ!レッスン希望でございますか?」
受付の女性は声をかけた。
「あっ・・・はい、そのう・・・私は不器用なんですが・・・出来ますか?」
ニコッと笑って受付嬢は言葉を返す。
「ええ、もちろん大丈夫ですわ。皆さん最初は同じですよ。今日は先生がお見えですから、お話していただきましょう!どうぞこちらへ・・・」
言われるまま、中へと通された直樹は、独特の雰囲気とそこで踊っている多くの紳士淑女たちが若く、綺麗に見えた。軽快なワルツのテンポにあわせて踊っている数組の男女の中に、先ほど外から見つけた女性が居た。近づいて眺めたその姿は、やはり間違いなく直樹の心を捉えていた。彼女は麻子だった。
「こんにちわ!初めまして。レッスン講師の山崎裕子と言います。今日は楽しんでいってくださいね。簡単なステップ後で教えますから、すぐに踊りましょう!」
「そんな事が出来るんですか?」
「はい、ご心配なく。本当に簡単な動きですから」
笑顔がとても素敵な先生に好感が持てた。直樹はもう入会する気持ちになり始めていた。
「借金で首は廻んないけど、何か楽しみでもなきゃ、もうやってられないからなあ・・・えっと、財布には、確か2万円ぐらいあったなあ」ぼそぼそ呟きながら自分に言い聞かせていた。講師は曲が終わると手をたたいてみんなに言った。パンパン!と良く響く音が聞こえた。
「皆さん〜聞いて頂戴!今日ここに新しく体験に来られた男性が見えます。若い方でしょ!ご一緒できたら嬉しいですわよね?」
パチパチと拍手が響く。
「では、この方に簡単なステップを教えて差し上げるので、皆さんは少し休憩していてください」
そう話し終えると、直樹に近づいてきて、手招きしてフロアーに誘い出した。恥ずかしそうに近づいた直樹の前で、ジルバのステップをゆっくりと教えだした。難しい所は省略してリズムに乗れることだけで体の移動は最小限にしたステップだった。15分ほどのレッスンを終え、再びダンスレッスンが始まろうとしていた。講師は、直樹の相手を生徒の中から探し始めた。
「麻子さん!ちょっとこちらへ来て頂戴」
「はい、先生」
「こちらは中西麻子さん、斉藤さんとは年齢が一番近いから選ばせて貰ったの。今教えたステップでやれるように、動いて頂戴ね」
「あの〜本当にまだ、踊れませんけど・・・」
「大丈夫よ。リズムに乗せて身体を動かせれば、自然とステップが踏めるようになるから。まずは慣れる事から始めないと、楽しさが感じられないですよ」
「そうですか・・・初めまして、斉藤・・・直樹、と言います。よろしくお願いします」
頭を下げて麻子と組み合った。麻子も軽く頭を下げて二人は曲が流れるのを待っていた。こんなに早く二人きりになれるとは思っても見なかったから、次第に心臓が高ぶり、手のひらには汗が薄っすらとにじんできた。
曲が流れ始めた。予想通り直樹はうまく動くことが出来なかった。ニコッと笑いながら麻子は「気になされずに、続けましょう」と言ってくれた。次の曲に変わり、また次の曲に変わりした頃、少し慣れてきたのか、それとなくダンスをしている光景に二人は見えてきた。講師はじっと二人を見ていて、麻子のリードの上手さと、直樹の感のよさを発見した。その日は予定時間になり、踊っていた全員は拍手で締めを取り、片付けをして更衣室に入った。多くの生徒から、温かく迎え入れられた直樹は、人柄の良さと心温まる気持ちを皆から貰い、借金の取立てに悩む自分を解放できる時間だと感じていた。
「斉藤さん、困るんですよね!払って頂かないと。私が上司に叱られますから。お願いしますよ!」
「すみません。給料日まで待って下さい。今は払えませんから・・・」
「そんなこと解ってんだろう?先月もその前もそう言ってたじゃないのか!親に借りるなり、バイトするなりして稼げよ!甘えてんじゃないよ!」
取立て屋はきつい言葉で電話口に居た。会社まで掛かって来るから、斉藤は困り果てていた。自分が作った借金だが、金利が膨らみ知らぬ間に返済金額が借りた金額の二倍になってしまっていた。毎月の給料からではもう到底返せない状態で、翌月に繰越、また繰越で延滞利息が輪をかけ苦しめていた。始めは小さな金額だったが、返済のために別の金融会社で借りたりしてもうその金額は月20万の給料では到底返せるものではなくなっていた。
斉藤直樹、30歳、某輸入雑貨店に7年勤務。独身。バブル景気で世間が賑やかしい今、ファッションや付合いでディスコなど派手にお金を使っていたから、身分不相応な暮らしになっていた。一度だけと誘惑に負けて借金したのが、事の始まりだった。
「このままでは、会社にも知れてしまう・・・どうしよう」
さんざん悩んだ挙句、直樹は逃亡することを考え始めていた。親は貧しい暮らしをしているから、頼れないし、苦肉の作戦を強いられていたのだった。
「麻子、明日からアメリカに行って来るから、留守を頼むよ。帰りは一月後ぐらいの予定だ。私の居ない間はどこか旅行にでも出かけていなさい。純一も喜ぶだろうし」
「そうしますわ。気をつけて行ってらっしゃいませ」
中西功一郎、40歳、中西麻子、35歳、中西純一、10歳。
中西家の家族だ。86年ごろから経営コンサルタントとして独立した夫功一郎はバブル経済の影響を受けながら売上と自らの投資を増やしてきた。六本木にある事務所もその象徴だ。株の投資に関しては専門で得意先には多くの事業家や芸能人、麻子のようなマダムがたくさん居た。
金と共に手に入れた愛人とアメリカへ旅行するのだ。表向きはアメリカでの不動産買い付け。すでに二箇所紹介で買い付けていたが、さらなる紹介があり、その顧問と一緒に出かける手はずになっていた。顧問もまた愛人同伴なのだ。お互いに隠れ蓑として誘い合っていたのだ。夏休みに入っていた小学生の純一は、母麻子と北海道へ旅行することになった。初めて見る雄大な景色と気持ちよい涼しさに純一は心ウキウキしていた。
「ママ!牛が居るよ。アッ!あっちにも居る。凄いねえ」
「そうね、東京とは違うね。自然ってやっぱり素敵!」
「ママ!今度はパパとも一緒に来たいね。きっと楽しいよ」
「そうねえ、でもパパは忙しい人だから、無理でしょうね。純一が大きくなるころには少しは暇になっているかも知れないけど・・・」
麻子は、純一がパパと出かけたことがないのを慮った。結婚して11年。自分たち夫婦と家族って幸せなんだろうかと、ふと車窓を眺めていて感じていた。
毎月第三日曜日は直樹にとっては楽しみにしている日であった。ふと通りかかったビルの二階で垣間見た社交ダンスのレッスン光景。直樹には爺くさく感じられたが、目を引く綺麗な女性が居た。同じ年齢ぐらいであろうが、品が良く一際目立っていた。ふらふらとその色香にほだされて、事務所の扉を叩いてしまった。
「こんにちわ!レッスン希望でございますか?」
受付の女性は声をかけた。
「あっ・・・はい、そのう・・・私は不器用なんですが・・・出来ますか?」
ニコッと笑って受付嬢は言葉を返す。
「ええ、もちろん大丈夫ですわ。皆さん最初は同じですよ。今日は先生がお見えですから、お話していただきましょう!どうぞこちらへ・・・」
言われるまま、中へと通された直樹は、独特の雰囲気とそこで踊っている多くの紳士淑女たちが若く、綺麗に見えた。軽快なワルツのテンポにあわせて踊っている数組の男女の中に、先ほど外から見つけた女性が居た。近づいて眺めたその姿は、やはり間違いなく直樹の心を捉えていた。彼女は麻子だった。
「こんにちわ!初めまして。レッスン講師の山崎裕子と言います。今日は楽しんでいってくださいね。簡単なステップ後で教えますから、すぐに踊りましょう!」
「そんな事が出来るんですか?」
「はい、ご心配なく。本当に簡単な動きですから」
笑顔がとても素敵な先生に好感が持てた。直樹はもう入会する気持ちになり始めていた。
「借金で首は廻んないけど、何か楽しみでもなきゃ、もうやってられないからなあ・・・えっと、財布には、確か2万円ぐらいあったなあ」ぼそぼそ呟きながら自分に言い聞かせていた。講師は曲が終わると手をたたいてみんなに言った。パンパン!と良く響く音が聞こえた。
「皆さん〜聞いて頂戴!今日ここに新しく体験に来られた男性が見えます。若い方でしょ!ご一緒できたら嬉しいですわよね?」
パチパチと拍手が響く。
「では、この方に簡単なステップを教えて差し上げるので、皆さんは少し休憩していてください」
そう話し終えると、直樹に近づいてきて、手招きしてフロアーに誘い出した。恥ずかしそうに近づいた直樹の前で、ジルバのステップをゆっくりと教えだした。難しい所は省略してリズムに乗れることだけで体の移動は最小限にしたステップだった。15分ほどのレッスンを終え、再びダンスレッスンが始まろうとしていた。講師は、直樹の相手を生徒の中から探し始めた。
「麻子さん!ちょっとこちらへ来て頂戴」
「はい、先生」
「こちらは中西麻子さん、斉藤さんとは年齢が一番近いから選ばせて貰ったの。今教えたステップでやれるように、動いて頂戴ね」
「あの〜本当にまだ、踊れませんけど・・・」
「大丈夫よ。リズムに乗せて身体を動かせれば、自然とステップが踏めるようになるから。まずは慣れる事から始めないと、楽しさが感じられないですよ」
「そうですか・・・初めまして、斉藤・・・直樹、と言います。よろしくお願いします」
頭を下げて麻子と組み合った。麻子も軽く頭を下げて二人は曲が流れるのを待っていた。こんなに早く二人きりになれるとは思っても見なかったから、次第に心臓が高ぶり、手のひらには汗が薄っすらとにじんできた。
曲が流れ始めた。予想通り直樹はうまく動くことが出来なかった。ニコッと笑いながら麻子は「気になされずに、続けましょう」と言ってくれた。次の曲に変わり、また次の曲に変わりした頃、少し慣れてきたのか、それとなくダンスをしている光景に二人は見えてきた。講師はじっと二人を見ていて、麻子のリードの上手さと、直樹の感のよさを発見した。その日は予定時間になり、踊っていた全員は拍手で締めを取り、片付けをして更衣室に入った。多くの生徒から、温かく迎え入れられた直樹は、人柄の良さと心温まる気持ちを皆から貰い、借金の取立てに悩む自分を解放できる時間だと感じていた。
作品名:哀の川 第一章 始まり 作家名:てっしゅう