Slow Luv Op.2
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“今日、帰国した。夕食でも一緒にどうだ?”
そのメールが悦嗣の携帯電話に入ったのは、実家のレッスン用ピアノを調律し終わった時だった。送信相手のアドレスは見覚えのないアルファベットだったが、直感的に曽和英介からだと思った。帰国と言う文字を使う知り合いは、今のところ彼しかいなかったからだ。
「変な時期に帰ってくるんだな」
十二月と言えば、演奏会の大盤振る舞いの時期である。無神論者がイベント的に騒ぐ日本のそれと違い、キリスト教圏を持つヨーロッパでは、一年の内で最も大切な行事のクリスマスがある月。オーケストラは『彼』の誕生日を、美しい音楽で人々と祝うのだ。それにWフィルは毎年、ニューイヤー・コンサートで年を明けることになっている。
“いいけど、今晩、月島学オケのクリスマス・コンサートがあるんだ。よかったら一緒に聴きに行かないか? 晩飯はその後ってことで。六時に正門前でどうだ?”
曽和夫妻はまだ離婚調停中だったので、その関係で帰って来ているのかも知れない。そんなことを考えながら返信すると、すぐに“OK”が返ってきた。
調律したてのピアノを試し弾きする。臙脂色のグランド・ピアノは母好みの柔らかな音色がした。加納四きょうだいは皆、このピアノにお世話になった。
六月のアンサンブル・コンサート後も、悦嗣は調律の仕事を続けていた。英介が言った通り、『加納悦嗣、何者?』としばらく周りは騒がしかったが、本人が演奏活動に積極的ではなかったので、一ヶ月も経つ頃には普段の静けさが戻った。
ただ出身校の月島芸大だけはさすがにしつこく、講師の口をしきりに勧めてくる。大学行事の折は必ず招待状が来て、公開レッスンや模範演奏の依頼も忘れない。レッスンを受けたいと、直接訪ねて来る学生もいた。今のところ、それらを断ることが煩わしく、悩みの種だった。
今夜の月島芸大学生オーケストラのクリスマス・コンサートも、大学からご丁寧な招待状がきた類なのだが、妹の夏希が所属していて、彼女の最後の学オケコンサートということで――四年生なので――、聴きに行くことにしたのだ。
試し弾きの曲が終わる。鍵盤カヴァをして蓋を閉めると、商売道具を持ってレッスン室を出た。
私立月島芸術大学では、毎年十二月の第二土曜日に学生オーケストラがコンサートを催す。時期的なこともあってクリスマス・コンサートとされていた。構内の音楽ホールでこじんまりと催される小規模なコンサートなのだが、親しみ易いプログラムとチャリティも兼ねていたので、近隣の住人は毎年楽しみに足を運んでいた。
今年のメイン曲は合同合唱団付きでヘンデルの『メサイア』から抜粋、それとラデッキ―行進曲にクリスマス・キャロル数曲が予定されていた。
六時半の開演に合わせて、人々が正門を潜る。それを横目に悦嗣は英介を待っていた。約束の時間を既に十五分ほど過ぎていたが、待ち人はまだ来ない。
――時間にきっちりしてるあいつが、珍しいな
と思って時計を見るために落とした視線上に、彼の前に止まった靴が入った。
「遅かったな、何かあったかと思ったぜ?」
目を上げると、立っていたのは英介ではなかった。
右目の下に小さなほくろ。見忘れることのないポーカーフェイス。
「おまえ、中原…」
「道が混んでたんだ、ごめん」
抑揚のない声は、中原さく也だった。
「なんで、ここに?」
「あんたに誘われたから」
コートのポケットから携帯電話を取り出した。画面を悦嗣に見せる。そこには昼間に悦嗣が打ったメールの文面が表示されていた。
「あのメール、おまえだったのか? 帰国ってあったから、てっきりエースケだと思った」
「帰国って言ったら、エースケなんだな」
「そりゃあ…」
中原さく也とはあのコンサート以来会っていない。彼の住所と電話番号が書かれた『日本の名勝百選』は本棚に並んでいたが、連絡したことはなかった。
あのコンサート自体、一時の夢のような体験だった。その時間を共有した英介以外の三人もまた、夢の中の登場人物で、戻った日常生活においては存在感がまるでない。
ただ思い出す時には、中原さく也は鮮明だ。その弦の音と――あの唇の感触と。
しかしそれも時折りのこと、やはり『帰国』と言えば英介しか思い浮ばない。
「開演は何時? まだ入れるのか?」
口篭もった悦嗣を気にする風でなく、さく也が言った。さっき一瞬トーンが下がったように感じたのは、気のせいだったか?
「そうだな、急ごう。ホールまで距離あるから」
時計を見直し、悦嗣は歩き出した。
さく也と肩を並べて歩く。遠ざかっていた記憶が、そろりそろりと蘇ってきた。
月とビルと悦嗣とさく也。切り取られたあの場面――何を話せばいいのかわからない。
チラリとさく也を見やる。横顔からは表情が読み取れない。
「今の時期、忙しいだろ?」
変に意識するのも良くない。恋愛の有無はともかくとして、こうして再会したことは何か縁があってのことだろうし、自分を訪ねてくれたことを素直に喜ぶことにした。
「移籍することになって、その関係で時間が出来たから」
「移籍? どこに?」
聞き返した悦嗣に、さく也は不可解な目の表情を見せた。
「Wフィル」
「ああ、そうなのか。エースケ、喜んだだろ? 来て欲しがってたから」
「あんたが言ってたんじゃないのか…」
「え?」
「Wフィルのオーディションを受けさせたらどうかって、あんたが言ってたってエースケから聞いたけど」
彼の目の意味がわかって、悦嗣はため息をついた。
「エースケの野郎、目的の為なら、相変わらず何でも使うヤツだな」
半年前、似通った手口でまんまとアンサンブル・コンサートに引き摺りこまれた悦嗣である。あの時は卒業単位を大目に見てもらった恩師を使われた。実際、恩師本人も喜んで協力していた節が無きにしも非ずだが、巻き込んだのは英介なのである。
「あ、でも、Wフィルって言えば世界最高峰じゃないか。その腕に相応しいと思うぞ、俺も」
一応、この場にいない英介をフォローする。これもやはり惚れた弱味というところか。
「ありがとう」
そのフォローに、さく也は小さな声で答えた。すっかり陽は暮れていたので確信は持てない。しかし冴えたその頬に心なしか照れが浮んだように、悦嗣には見えた。
そうこうするうちに、音楽ホールに着いた。開演まもなくの会場は満席に近く、二人は最後列に近い端の席を、ようやく見つけて座った。
「盛況なんだな?」
ざわめくホール内を見渡して、さく也が言った。
「入場券は安いし、日本人好きする選曲だしな。演奏もそこそこ聴ける。ファースト・チェロには、俺の妹がいるんだ」
四年生だけパンフレットに顔写真が載っている。チェリストの欄の夏希を指差した。さく也がそれを覗き込んだところで、一ベルが鳴った。開演五分前である。
ロビーに出ていたり、間際に滑り込んできた客が、通路を慌ただしく通り過ぎる。悦嗣に気づくと、何人か足を止めて声をかけた。それはサークルの後輩であったり、同期であったり、教授であったり。本ベルが鳴って客電が落ちるまで続いた。
作品名:Slow Luv Op.2 作家名:紙森けい