遼州戦記 保安隊日乗 番外編 2
「本当に……話に聞いたとおり女の子が飼っているのね……」
「でも大丈夫なの?」
興味深げに見る者、いつでも逃げられるように引き下がる者。さまざまな視線にシャムは鼻高々でそのままグレゴリウスから飛び降りた。
「馬鹿!」
突然シャムの頭がはたかれる。そこには保安隊実働部隊第二小隊所属の西園寺要大尉の姿があった。
「要ちゃん……痛いじゃない」
「当たり前だ。痛くしたんだから……うわ!」
要の言葉が終わる前にグレゴリウスは大好きなシャムを虐めたことに復讐するために要にボディープレスを食らわした。
「くそ!どけ!馬鹿熊!」
もがく要。それを見て満足げにうなづくシャムの隣に先ほど熊を見て黄色い声を上げていた女性事務員の一人が恐る恐る声をかける。
「大丈夫なんですか?」
「平気平気!」
「そう平気よねえ、要ちゃん」
女性事務員の間を縫って長身の紺色の髪の女性がシャムに声をかけた。その整った肌と自然界ではありえないような鮮やかな紺色に女性事務員達は不思議そうにその人物、アイシャ・クラウゼ少佐の方に顔を向けた。
「アイシャ……テメエ……」
つぶされかけていた要だが軍用義体であるその体はのしかかる熊の圧力を押し戻そうとしていた。その姿に驚く菱川重工業の女子従業員達。
「ほら、平気じゃないの」
「平気に見えるか?これが平気に見えるのか……テメエは」
ようやく冗談を済ませたグレゴリウスは飛び上がってシャムの後ろに隠れる。埃まみれのタイトスカートをはらいながらその目をにらみつける要。なんとも不思議な光景が展開していてただ呆然と見守るギャラリー達。
「それより……シャムちゃん。リアナお姉さんは?」
「ああ、さっき来てたよ……そう言えば艦長代理になるんだよね、アイシャは」
「まあね」
「心配もここに極まれりだな」
「何か言った?」
「別に」
三人の女性隊員のやり取りを見て工場の職員達は噴出すタイミングを図っていた。
「それじゃあアタシ先行ってるわ」
そう言うと要は近くに止めてあったバイクに足を向ける。
「あれ?今日はカウラは?」
シャムは思わず要の第二小隊の小隊長、カウラ・ベルガー大尉の名前を挙げた。いつもはカウラのスポーツカーにアイシャと要、そして第二小隊の新人神前誠曹長を乗せて通ってきているのでバイクで通勤する要達を見るのは久しぶりだった。
「ああ、あいつは今日は有給。それと……」
「誠ちゃんは今日は本局で検査だって。法術適正の再チェック」
「んなことしなくても奴は結構いい活躍してるじゃないか……」
そうつぶやいた要をにんまりと笑っているアイシャが見つめていた。
「気になるんでしょ?」
「何が?」
アイシャのにやけた顔にしばらく真顔だった要の顔が赤く染まる。
「あれ?要はどうしたの?」
「うるせえ!アタシは先行ってるからな!」
そう言うと要はシャム達を置いて止めてあったバイクにまたがる。そして後部座席に置いてあったヘルメットをアイシャに投げつけた。
「何するのよ!」
アイシャの言葉は要には届かない。ガソリンエンジンの音を立てながら要のバイクはそのまま車道に出て視界から消えた。
「アイシャ……帰りは大丈夫?要はああなったら就業時間も一人で帰っちゃうよ」
「ああ、大丈夫。カウラはどうせ乗馬クラブが終わったらこっちに来るだろうし……誠ちゃんも午後には検査が終わってこっちに来るらしいから」
「ふーん」
シャムはそう言うと隣のグレゴリウスに目をやった。先ほどから事務員がシャムの隣でおとなしく座っているグレゴリウスの姿を写真にとっているのが見えた。
「人気ね、グリン君は」
「グリンはあれは映画の名前でしょ?これはグレゴリウス」
「めんどくさいじゃない。グリンでいいわよね!」
「わう」
アイシャの言葉に返事をするグレゴリウス。その様子にギャラリーは感嘆の声を上げる。
「じゃあ……アイシャ、おやつを買ってくるからしばらくグレゴリウスを見ててね」
「ええ……まあいいわよ」
簡単に五メートルはあろうかという巨大な熊を任されてしばらく放心するアイシャ。それを無視してシャムはそのまま生協の入り口に向かっていった。
広い店内。広がる世界はこの工場が野球場が100個も入る巨大なもので、そこで働く人々の数が万に届くものであることをシャムにも思い知らしめた。だがシャムはすぐに笑顔になるとそのままかごを片手に歩き始める。目指すのは惣菜コーナー。今の時間は出勤している職員が多いので品揃えも多くシャムのお気に入りのメニューが簡単に手に入った。
「あ……」
惣菜コーナーに群がる工場の従業員の群れの中に一人浅黒い顔の男が立っていてすぐにシャムの存在に気づいて振り返った。
「あれ?先生?」
それは保安隊医務局の医師ドム・ヘン・タン大尉だった。見つかったとわかるとドムはそのまま逃げるように立ち去ろうとする。そこに少しばかり思いやりがあれば見逃してくれるところだったがシャムにはそういうことに気を回すデリカシーはかけらもなかった。
「逃げるな!」
「ひ!」
目の前に立ちはだかるシャム。驚くドム。二人はにらみ合い、そしてドムはうなだれた。
「お弁当!いつも奥さんの奴があるじゃないの!太るよ!」
そこまで言ってようやくシャムはドムの異変に気づいた。手にはたっぷりおかずとご飯の幕の内弁当。手にしていたかばんにはいつもの愛妻弁当の姿はなかった。
「いいだろ……俺の勝手だろ……」
「もしかして……」
「は?」
立ち上がったドムに泣き出さんばかりの表情で見つめるシャム。それを見てドムは呆然とするしかなかった。
「逃げられたのね!奥さんに!」
シャムの叫び声が響く。惣菜売り場で昼の食事や夜勤明けの朝食を探していた職員達の視線がシャムとドムに集中する。
「なっ……何を言い出すんだ!君は!」
「でも愛妻弁当じゃないじゃん」
「意味もわからず愛妻弁当とか言うんじゃない!」
「でも奥さんにいつもお弁当作ってもらってるじゃん」
そこまでシャムが言ったところでドムは幕の内弁当をかごに入れてため息をついてうつむいた。
「どうしたの?先生らしくもないよ」
シャムになだめられているという現実をまざまざと見せ付けられてドムはうつむいて再びため息をついた。
「それがね……」
「うん」
明らかにしょげているドム。それを興味津々の目でシャムは見つめていた。浅黒い色の小太りの男と小さな女の子がしゃべっている光景。工場の中とは思えない組み合わせに回りにギャラリーが集まり始める。
「明石君に誘われて行った東都銀座の店のマッチをコートの中に入れてたら見つかってさあ……」
「なんだ、別居じゃないんだ」
「おいおい!そんな大事にしないでくれよ。今朝だって怒ってたからカップ麺で朝食だったし」
「あれ?先生の子供さんはどうしたの?」
「ああ、昨日は俺抜きでピザを取って食べてたから。それの残りを食べて出かけてったよ」
「ふーん」
一通り話し終えて我に返ったドムの周りに人垣ができていた。急にドムの表情はあせりに満ちたものへと変質した。
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 番外編 2 作家名:橋本 直