刻の流狼第三部 刻の流狼編
この、全体が結界になっている様な森の中で、魔法呪法を離れてかけるなど、偉大な魔法使いでも不可能だ。それは古の魔法を未だに持ち続けるアスタートでさえ、不可能と言う事でもある。
敵が誰なのかは判らないが、ソルティーの言っていたずっとまとわりつく感覚からも、その者が近くで此方を伺っていると考えても間違いない。
――問題なのは、前みたいに姿のない敵だと、こっちは見付けられないんだよね。
それを口に出さないのは、余計な不安を煽りたくなかったからだが、反対にそれを言った所で、事態が良くなるとも思えなかったからだ。
「じゃあ、暫くはこの状態を打破する事を前提に行動するよ。イニスフィス達にも手伝って貰う事になるけど、良いかな?」
「ああ、それは勿論だ」
「俺達の森で好き勝手にされるのは癪に障るからな」
「ありがとう。それじゃあ、まずはソルティーをもう少しましな所に移動させよう」
須臾が気合いを入れる為に両手を力強く叩き合わせ、全員が立ち上がった。
須臾の指示の元、ソルティーを多少広さのある樹木の間に運び、それぞれの仕事に目的を持って行動を開始した。
イニスフィス達は周囲の探索をし、敵の足跡を捜した。もし肉体を有していれば、何かの痕跡を見付けられるかも知れない。アスタートと外の者とでは身体的特徴が異なるのだから、もし見付けられれば判別はしやすいだろう。
須臾は自分達の荷物から、結界用の封呪石をありったけ集め、ソルティーの周りに配置させた。
これ以上訳の分からぬ呪いを重複させない為だ。
魔法や呪法の中でも精神面の影響を与える物は、効果にはかなりの個人差が出てしまう。相手の意志力が強ければ強いほど、眠りといった単調な魔法は掛からない。しかもこの様な魔法は冥・命・樹の精霊が得意とし、四大精霊を扱う術者と比べれば、殆ど扱える者は居ないと言える。
だが始末が悪いのは、こうして意識を奪われた状態になると、今度はどの様な小さな魔法でさえも退かす事が出来なくなる事だ。
炎や水と言った目に見える攻撃魔法と違って、じわじわと忍び寄ってくる呪いは、何よりも厄介な魔法だった。
ただ結界を張っても安心など微塵も感じられないのは、これから掛かる時間を考えてだった。
本来なら肉体の衰弱を抑える手段も用いたかったが、それは彼自身の持病から果たせない。
もしも敵がそれを知り、ソルティーの衰弱だけを目的にしているのであれば……。
精神的な衰弱を引き起こせば、それは須臾の手には負えない代物だ。
其処で須臾が考えたのは、特に今の状態で役に立たない恒河沙を、ソルティーの横に座らせておく事だった。
「手でも握って、心の底からソルティーに呼び掛けるんだよ。『居なくなっちゃ嫌だよぉ』とか、『俺を一人にしないでぇ』とか」
「……なんだよ…それ」
「良く効くおまじない」
恥ずかしそうに口を尖らせる恒河沙の髪を掻き混ぜ、須臾は笑って其処から退散した。
我ながら陳腐だと思いながらも、意外と一番の方法かも知れないと自画自賛しながら。
人の想いほど効く薬は無いと須臾は信じている。
――僕のは効かなかったけどね。
しかしながら実感として、ソルティーは恒河沙の頼みを断れないとも信じている。どんな厳しい状態であっても、彼の過去にどんな人が居ても、今のソルティーには恒河沙は欠かす事の出来ない存在であるのは、誰の目から見ても明らかだ。
但し本人にその自覚もなければ、須臾の見る所、二人の好きは全く違う風に写っている。
男と女が居る素晴らしさと、その意味を知らない恒河沙は、確かにソルティーを好きなのだろう。だがソルティーの方は違う。
時折彼が見せる恒河沙への眼差しは、何か眩しそうに感じられた。
妙な言い方かも知れないが、まるで老人が外で走り回る子供を見つめるような、懐かしさと羨望を優しさの中に詰め込んだ様な視線だ。
何故そんな風に恒河沙を見つめるのか聞いてみたい気持ちもあるが、結果としてそれが彼の過去に踏み込む事になると考えれば、そう容易に口に出せる事ではない。ただそうした眼差しを浮かべるほどの事がソルティーの過去にはあり、それが恒河沙を普通の人間として接してくれる原因となっているなら、決して踏み込まないようにとも思う。
例えそれがこれから更に恒河沙の妙な感情を増大させる事に繋がってもだ。
禁忌を犯してはならないと判っていても、しかし、それはそれ、これはこれ。
――僕は恒河沙の味方だもんね。
結局須臾も、恒河沙には大甘な一人でしかないのだ。この辺りに対するソルティーの迷惑なんか、何も考えてはいなかった。
一面の花畑。
色とりどりの花が咲き乱れ、時折吹き抜ける風が花びらを飛ばす。地平線まで花で埋め尽くされた其処に、ソルティーは一人立っていた。
見覚えは有る。
幼い頃に何度も訪れた事のある其処を、忘れ去る勇気はない。
知っていたのではなく、教えて貰った。
花に興味の無かったソルティーにその場所を教えたのは、
「アルスティーナ……」
遠く微かに見える場所には、父や母が居る美しい城が見え、この花畑の近くに彼女の屋敷が在った。
この場所を誰よりも愛していた彼女に、定められた許婚としてではなく、一人の男として誓いの約束を口にした。
「此処に君は居るのか?」
そうであって欲しいと呟き、花びらを舞い上がらせながら歩き出し、そして走り出した。
もう一度会いたい。
会って声を聞きたい。
そして、出来るならもう一度、彼女の口から「愛している」と言って貰いたかった。
「アルスティーナッ!」
走りながら彼女の名前を叫ぶ。
自分の声が届いているなら、必ず彼女が現れると信じているから走り続けた。
「ソルティアス様」
突然背後からの声に、ソルティーの胸は早鐘の様に鼓動を高めた。
「……アルスティーナ」
振り返り、あの日のままの少女を見た瞬間、彼の姿もあの日に帰っていた。
十八歳と十四歳だったあの日の姿に。
「ソルティアス様、会いたかった」
緩やかに微笑む彼女に、ソルティーも喜びの笑みを見せる。
「私もだよアルスティーナ。君にどれ程会いたかったか」
いつもの様に消えてしまいそうな儚い彼女に、ソルティーは一歩ずつ確実にその距離を縮め、その手を伸ばした。
「もう、一人にしないで下さい」
「するものか。どうして君を愛している私が、君を一人にするんだ」
確かな温もりのある小さな体を抱き締め、花の香りがする彼女の金色の髪に顔を埋めれば、愛しさが更に深まっていくように思えた。
「どれだけこの日を待っていたか。どれだけもう一度君を抱き締める事を夢見た事か。アルスティーナ、もう二度と君を離したくない」
「嬉しい…ソルティアス様。私も、ずっと貴方様と一緒に居たい」
彼女の腕がソルティーの背中に回り、きつく抱き締める。
この日をどれだけ待ち望んでいた事か。例え夢の中であっても、彼女はいつも触れる直前に姿を消してしまった。
思いでの中の彼女はいつも笑顔だと言うのに、夢はいつも辛い現実を露わにし、彼女を救えなかった事を責め立てるのだ。
――夢でも良い。これが夢でも、もう……。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい