刻の流狼第三部 刻の流狼編
木の幹に片手を添え、深く項垂れて重くのし掛かってくる数々の反省を堪える。
「お前、何黄昏てんの?」
突然背後頭上から降ってきた声に振り返ると、ズボンだけの姿の須臾が不思議そうに自分を見下ろしていた。
「別に……なんでもない」
言っても良いが、言えば須臾の治そうとしている傷を抉るので、ひとまず隠してみる。
「ふ〜ん、まっ良いけど。そんな似合わない顔しないで、僕と一緒にさっぱりしない?」
そう聞きながら、体は恒河沙の腕を掴んで泉へと向かっていた。
「ちょっ、俺いいよ。入りたくねぇって」
「そう嫌がらないで、気分良いよ? お前、ガキの頃は一日中でも泳いでたじゃない」
「そんなの、俺しらねぇっ!!」
泉の前で恒河沙は力一杯須臾の腕を振り払い、苛立った声を上げた。
「ガキの頃なんか、俺が知るわけないだろっ! そんなの俺には関係無いだろっ!」
「恒河沙……」
振り払われた腕を抱え、傷付いた須臾の顔を見て、恒河沙は自分の言ってしまった事を理解して唇を噛んだ。
「……ごめん、俺……」
記憶が戻るのを心待ちにしている彼に、言ってはいけない言葉を言ってしまった。
どれだけ須臾が自分の為に時間を無駄にしているのか、してきたのかを思えば、忘れてしまった過去を否定するのは、どれだけ彼を馬鹿にした行為なのか恒河沙でも判る事だ。
「ごめんなさい……」
「恒河沙」
どう言って謝ればいいのか、俯いて頭を悩ませる恒河沙の肩に、須臾の手が優しく添えられる。
「須臾」
後悔で一杯の心で、思い切って彼の目を見て謝ろうと上を向いた瞬間、間近にあった須臾の顔を見て恒河沙の思考はある程度停止した。
満面の笑みで恒河沙を見つめる須臾は、更に彼を掴む手に力を入れる。
「そんな位で、僕が傷付く筈ないで、しょっ!」
「へっ? えっ、うわぁっ!!!」
油断していた恒河沙の体は須臾の腕が導くまま、盛大な音と水飛沫をたてて泉の中に放り込まれた。
「甘いんだよねぇ、僕の十七年間を何だと思ってんのか。伊達や酔狂でお前の保護者やってるんじゃ無いでしょ」
腕を組んで、自分の言葉に深く頷き、須臾は満足そうに水面から顔を出す恒河沙に笑いかけた。
「てめぇっ、何しやがるんだ! この馬鹿っ!!」
「僕は恒河沙より遙かに賢いから、ぜんぜん悔しくありませーん」
「〜〜〜〜〜っ!!」
「何をして居るんだお前達は……」
恒河沙の落とされる音に漸く腰を上げた三人が、呆れた顔で楽しそうな須臾を眺めていた。
「何って、友情の再確認を少々」
「人を投げ飛ばして何が友情だっ! ソルティー、こいつ俺のこと投げ飛ばしたんだ」
顔を出すのがやっとの水深らしく、水の中で飛び上がって訴える恒河沙の姿はまるで溺れている風に見えた。
余りにも低次元な二人にソルティーは肩を落とし、溜息混じりに恒河沙に手を伸ばす。
「ほら、泳ぐなら服を脱いでからにしろ」
「誰が泳ぎたいって……」
「だから甘やかすなって」
「うわっ!」
泉の縁にしゃがんだソルティーの背中を須臾が思いっきり蹴飛ばし、そのまま頭から泉の中に落とされた。
「須臾っ!」
「うひゃひゃひゃ」
上手く運んだ悪戯に須臾は腹を抱えて笑う。
顔から突っ込んだ所為か、ソルティーは咽せながら泉に立ち、絡み付く髪を掻き上げる。
引っかける方も方だが、引っかかってしまった自分が情けなく、とても自分達を笑い飛ばす須臾を見上げる気にはなれない。
「大丈夫?」
「……なんとか」
流石にそれ以上の言葉は思いつかず、鎧一切を水に浸してしまった現実に呆然とする。
「それでは、僕ももう一度。……うりゃ」
「ばっ馬鹿やめっ!!」
二人目掛けて飛び込んできた須臾を、止めるのも方向を変えるのも不可能で、三人は同時に水面下に没した。
「……お前等、何しとんだ」
テレンの呆れた言葉は、そのままソルティーが言いたかった言葉だった。
濡れた服を枝にぶら下げ、ソルティーが濡れた鎧から完璧に水気を拭き終えた頃には、蒼陽が空を支配していた。
全員が正気を取り戻してからは、見張りの交代は順調に行われた。
森の中で安心しきっていたテレン達も、先日の一件以来は警戒を強め、見張りの重要性を改めた。
「ふぅ……」
眠い目を擦りながら、大剣を抱き締めて恒河沙が周りを見渡す。
これが森以外での見張りなら、火の番をする暇つぶしもある。一人で何もない場所での見張りは苦痛でしかない。
特に今日は泉で散々体を動かし、気持ちよく隣で眠っている須臾の頭を何度殴ろうかと思った事か。
「退屈」
まだ次の見張りであるソルティーを起こすには早く、恒河沙は足下に用意していた夜食に手を伸ばした。
「だったら、私と遊ぶ?」
「へっ?」
思いもよらない突然の声に、慌てて声の方を見ると、其処には見た事のない少女が微笑んで立っていた。
暗闇の中でも映える長い黒髪と、輝く金色の瞳。アスタートではない事は、少女の耳を見れば判る。
「誰?」
敵対心や、悪意は感じない少女に、恒河沙は誰かを起こす気になれなかった。
ただ、起こした所で誰かが目覚めたかは疑問だ。
「遊ぼ、お兄ちゃん」
楽しそうに手招きをする少女に、大剣を持ったまま恒河沙は立ち上がった。
もし敵なら、今度は自分一人でなんとかしたい、そう言う虚栄心が沸き上がったのは確かだ。
「こっち」
近付くと、その分離れていく少女を追い掛け、恒河沙はいつの間にか見張りの場所から泉を挟んで反対の所まで来てしまった。
「お前、誰だよ?」
「私? ミルナリス。でも、お兄ちゃんは直ぐに忘れてしまうの」
漸く立ち止まり、後ろ手に腕を組みながら恒河沙の周りを歩くミルナリスは、努めて子供らしい口調で恒河沙を安心させていた。
「忘れる?」
「そう」
無邪気に恒河沙の腕を掴み、にっこりと彼の瞳に笑みを漏らす。
「覚えていらっしゃられては困りますので」
「え?」
見つめる金色の瞳が怪しく光り、突然襲いかかった眠気に抗う事は出来なかった。
崩れ落ちる体を支えきれず、恒河沙はミルナリスの見守る中、意識を無くした。
「素直なお子様は大好きでしてよ」
口元に笑みを湛えながら、瞳だけは緊張していた。
地面に伏す恒河沙に屈み込み、小さな手を彼の頬に当てる。
「少し、調べさせて戴きますわ」
そう呟き、ミルナリスの体はその場から消えた。
ソルティーが見張りの交代の時間に目を覚ましたのは、蒼陽が傾きだした頃だった。
「……恒河沙?」
本当なら起こされる筈が、何時になっても体を揺する感触は無く、うたた寝をしてしまったのだろうと彼の気配を捜したが、本来居る場所に彼の姿は無かった。
周りを起こさない様に気を使いながら其処まで近付いてみたが、恒河沙の夜食が手つかずのままなのに気が付いた。
そして、彼が居なくなってからかなり時間が経過していた事も、温もりの消えた地面から判った。
「何処に行ったんだ?」
辺りに何か危険な気配は全く感じられず、恒河沙が勝手にいなくなる理由も思いつかない。
「……捜すしかないな」
一度寝ている者を須臾だけでも起こそうかと思ったが、結局自分の剣だけを取るとその場を後にした。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい