刻の流狼第三部 刻の流狼編
episode.17
鼓動が鳴った。
一つ、二つ、三つと、小さく弱い音だが、確かに鼓動は鳴った。
総てが灰色。輝きも、息吹も何も感じない灰色の世界。
その中で、彼は再び命を取り戻した。
何を思うか、何をすべきか、総ては既に胸の中にある。
空虚と荒廃の胸の中に。
* * * *
“瑞姫!”
「判ってるってっ!」
抗議もままならない状況の中で、瑞姫は懸命にありったけの力を其処にぶつけた。
反発する力と力の作用に、彼女が前方に向かって突きだした腕に、幾筋もの裂傷が生まれる。
「痛っ!」
「瑞姫っ!」
咄嗟に叫んだのは慧獅だったが、彼も瑞姫と同様に両手を突き出した状態でその場からは動けなかった。
二人の額には、同様に焦りからの汗が滲んでいる。もし此処に他の誰が居ても、その目には彼女達しか見えはしないが、確かに彼女達は何かと必死に戦っていた。
「あたしの事は後回しで良いから、早くしてっ!」
前だけを見つめ、なりふり構っていられないと、後ろに控えた晃司に叫ぶ。
三人とも当たり前の様にその場に存在していたが、其処は荒涼とした大地の真上。両足を支える大地もなく、彼女達が上空から見下ろす大地には、岩陰一つとして存在しない。
“良いぞっ”
“組上がった”
晃司に住みついている声が同時に叫ぶ。
「んじゃ、慧獅っ!」
「判った!」
息のあった掛け声に合わせ、瑞姫の力が一気に膨れ上がり、慧獅がそれに呼応する。
“晃司っ!”
「行けぇぇぇーーーーーーっ!!」
晃司は力の限りの声を張り上げ、両手の中に包み込んだ、凝縮した力の塊を、振りかぶって投げた。
それは何もない大地に向かい、一気に弾けた。
「よっしゃぁ!」
「“ナイスピッチング”!」
彼女達だけが感じられる禍々しい気配が消え、心なしか眼下の草原の色が鮮やかになったような気がする。瑞姫はその確実な手応えに、空中で飛び上がり晃司に片手を上げ、晃司は嬉しそうに頭を掻く。
「へへ、これでも伊達に“高校球児”はしてなかったんだよ」
「確か補欠だったと言っていたな」
自慢げに瑞姫に対して胸を張る晃司に、冷めた視線で彼の耳元に慧獅は呟き、地面に降りていく。
「ああもう、なんでお前はそうやって一言多いんだよ」
慧獅の後を追い、地面に降り立ちながら晃司は溜息をつく。
「何? どうしたの?」
「なんでもないよ。それより何か急に増えだしてないか? 今年に入ってこれで三度目だぜ」
晃司は上から振ってくる瑞姫を両手で受け止め、ここ最近の確かな変化を口にする。
“覚醒が近付いているのかも知れぬ”
慧獅の中からの声に全員が緊張し、自分達の踏みしめる大地を気分悪そうに睨んだ。
“でも、まだ時間はある筈よ。本当に覚醒しているのなら、この程度で済む筈が無いわ”
“ある意味これは、無意識の状態で行われていると言える”
「何よぉ、それじゃぁなに? あたし達は、寝惚けている奴相手に、こーんなに苦労してる訳? 冗談じゃないわよ」
体中の力が抜けても口だけは良く動く瑞姫に、二人は笑みを漏らす。
“しかし、今の内にと言える事だ”
「なら勝手にあんた等がすれば? 出来ればの話だけどね、能無しさん」
“………”
“止めなさい、瑞姫に逆らうなんて恐ろしい事は”
「どういう意味よ……」
「そういう意味だ。瑞姫、馬鹿は相手にしないで、怪我の治療が先だ」
珍しく優しい慧獅の言葉に、思いっきり疑いの眼差しを瑞姫は送った。
慧獅としては、一刻も早く晃司の腕から瑞姫を取り上げたいのだが、悲しい事に全く伝わっていない。
「なんだよ、俺に治療されたくないのか?」
「ううん。いやぁ〜良いなぁ〜って思っただけ。何時もそれくらい優しいと、好感度“アップ”なんだけど」
疲労の為か少し翳りのある瑞姫の笑みに、二人は苦しくなる。
どうして彼女一人だけが傷を負わなければならないのか、どうして自分達に彼女以上の力がないのかと。
晃司から瑞姫を受け取り、その軽さに慧獅は唇を噛む。
「瑞姫、また痩せたのか?」
「“ダイエット”! “ダイエット”してるのだ。あんたに勝ってるのが体重だけなんて嫌だもん」
そんな必要など無い、と何時も言っていた彼女の見え透いた嘘に、慧獅は言葉が浮かばない。
弱さを庇う為に気丈に振る舞う姿を見ていると、もう止めてしまえと言いたくなる。
それは禁句だと判っているから言いはしないが、どんなに苦しい事でも弱音を吐かずに一人で背負う彼女を、特に最近は見るのも苦しくなる時があった。彼女の苦悩の理由を知っているからこそ、言ってしまいそうになる言葉を飲むのが苦しかった。
ソルティー・グルーナに干渉するなと。
「もう、治してくれるならさっさと治してよ。傷が残ったらどうするのよ」
いつもなら直ぐに返される慧獅の軽口が、何時まで経っても耳に届かない。それどころか彼の表情からその奥にある気持ちを察し、とりわけ元気に言ってみる。
だが、その空元気も気付かれてしまう事も判っていた。
長い年月をたった三人だけで過ごしていたからこそ、何も言わなくても知り抜いていたし、知っているからこそ、言葉に出来なかった。
「判った判った、前よりも綺麗に治してやるよ。ついでにその顔も治してやろうか?」
「ふふーん、あたしの顔は完璧! だから傷だけ治して」
慧獅の嫌味も慣れた風に受け流し、得意げに笑う彼女に涙は似合わない。
だから、たった一人の犠牲など慧獅にはどうでも良かった。
敢えて言うなら、さっさと死んで欲しい位だ。
これ以上瑞姫が彼に同情し、徒に悲しみを増大させる事だけは避けたい。
それだけが慧獅の、そして晃司の願いだった。
静まり返った城の庭先に佇み、闇の覆われた空を見上げる。
アストアへ来てから四日が経った。最初二日の慌ただしさに比べて、この二日は何も無い、静かな時間が流れるだけだった。
「あれ? どうしたの?」
見張りの兵以外は寝静まった城の方から須臾の声が聞こえ、振り返ると窓から庭に出ようとしている彼の姿が在った。
途中何度も、隆起した地面に足を取られながら辿り着いた須臾は、ソルティーの横に立った。
「お前こそどうしたんだ、恒河沙は?」
「ああ、ハーパーの膝の上でご休息。僕は不覚な事に、昼寝をしてしまった為にね。此処なんにも無いからさぁ、退屈で退屈で。んで、ソルティーは?」
「ただの散歩だ」
「ふ〜ん」
また空を見上げだしたソルティーを横目で盗み見、口元に笑みを浮かべる。
先刻の言葉が彼の無意識の言葉なら、彼が本当に恒河沙を気にしているのだと思うと安心出来た。
結局二人がどんな言い合いをしたかは聞かずに終わってしまったが、どちらの態度を見ても最悪の状況だったのは間違いない。それがこれまたどんな話をしたのか知らないが、取り敢えずは元の鞘に収まってくれた。少なくとも表面上は。
しかし今の様子では、ソルティーが恒河沙に対して、僅かでも恨みを残している事はなさそうだ。
「何か見えるの?」
「いや、何も」
白月の輝きも届かない此処からの空は、ソルティーには闇だけだ。それでも、目を閉じた闇よりは安心できるから、こうしてただそれを眺め続けている。
作品名:刻の流狼第三部 刻の流狼編 作家名:へぐい