真神彬の姉の話
真神彬は人の目から見てよくできる奴だった。見目麗しく賢く、思いやりがあって面倒見もいい。根が真面目だがちょっと天然でなところがあり、女子の目から見てただカッコいいだけではなく、そういうところが可愛いと評判だった。男子にとっての可愛いは禁句だが女子にとっての可愛いは実はポイントが高い、高評価だ。その為、斎刃という美人の彼女さんがいるにもかかわらず、下は一歳児から上は八十過ぎたばあさんにまでモテた。彬はご近所さんのアイドル的存在で、外を歩けば頬を染めた女性たちに挨拶されたり声をかけたりする。それを知る同じく近所の野郎共は面白いはずがないが、彬の人柄が好もしいと知っているので憎めない。下は一歳児から上は八十過ぎのじいさんまであいつはいい奴だと好意的だ。
そんな彬にも、かつてご近所さんでさえ心配になるほど心配な点があった。
それは姉の維についてだ。
彬には八つ上の、歳の離れた姉がいた。彬と同じく飛びぬけて美人で、そしてどこか何かを母親の腹に置き忘れて生まれてきたんじゃないかというくらい頭が良かった。おそらく忘れてきたのは常識とみんなが思っている。
維は見た目だけなら完璧だ。でも中身はとんだ問題児で、ご近所の方々はみながみな障らぬ神に祟りなし、とちょっと避けて通る。だからといって嫌われ者というわけではない。皆コイツこの先どうなるのかなと心配していたのだ。弟でさえも。
彬が十代前半の頃、彼はとある事情で先が長くない予定だった。自分の命の刻限を考えた時、とてもとてもとーっても心配になったのは姉のことだった。
維は美人で頭もいいし、弟である彬のことをとても大切に思ってくれている。というか溺愛と言っても過言でないほど愛されている自身があった。
彬が八つの時、両親が亡くなった。祖母が姉弟を引き取ってくれたので生活には何の支障もなかったのだが、家事くらいは手伝わなくてはならない。しかしここで問題が発生した。
維は家事の一切ができなかった。
料理→ゴミ箱逝き
掃除→片付けないほうがマシ
洗濯→しわくちゃ生乾き
裁縫→怪我用心
万事が万事この調子で、祖母に、
「いい男捕まえなさい」
と、言われるのに時間はかからなかった。
できない姉を追い越して、弟の彬は家事が得意だった。すぐに覚えた。維はなかなか諦めなかったが、一緒に暮らしていた叔父に「食えなきゃ残飯、家具は一期一会、やり直す時間と金がもったいない、怪我は生きてりゃ治るけど血のシミはなかなか落ちないんだよ」と諭されおとなしく引き下がった。
負けず嫌いの維だが、引き際は心得ていた。
維が駄目なのは家事だけではなかった。人としてもちょっとアレだった。
彼女は基本的に人に興味がなかった。対人関係がまったく駄目というわけではないが、自分の世界に閉じ篭りがちで、人付き合いがヘタクソだった。維の頭は突然に、この世界から切り離しされる。
彼女のこの現象は、幼少の頃、「コロッケは油で揚げると浮くのに泥饅頭は水に浮かない」と砂場で遊んでいる時不思議に思ったところから始まった。ちなみにこの後、姉は熱した油に泥饅頭を落として母を仰天させ父と懇々と語り合うことになった。姉の行為を頭ごなしに叱るような両親ではなかったことは、姉にとって幸いだったに違いない。
世界にはたくさんの「何故?」があって、それがポッと頭に浮かぶと、それだけで彼女の頭はその「何故?」の世界に飛んでしまう。その世界が数式や文字で埋め尽くされているのかどうかは誰も知らない。だが解明されるまで誰にも邪魔できないということはわかる。
そんな彼女に、時々人は付き合いきれなくなる。恋人に「君は僕には理解できないよ」と、突き放されて別れることもしばしば。離れていった人たちに維は「別に律儀に理解してくれなくていいのに」と言う。寂しさを紛らわせるためとか強がりでもなんでもなく、維は本心からそう思っている。
彬もそう思う。人が人を完璧に理解できるという考えは傲慢だ。そもそも維がそういう人間であると、はじめからわかっていてお付き合いを始めたに、いざ付き合ってみると理解できないと異物を見る目で拒絶する。維の独自の世界に自分が入れない悲しさと寂しさを、「理解できない」という拒絶に置き換えて離れていく意気地のなさに、彬は何度も怒りを覚えた。そして放れていった男が次に付き合うのは顔も中身も平凡な女性なのだ。結局彼らには維と付き合えるだけの器量も才能もなかったのだと、そこで露呈している。
維は変人で生活破綻者で、そしてある種の天才だ。そんな人間を、凡庸たる彼らに支えられるはずがない。
だが、凡庸であることが悪ではなかったのだと、彬は知ることになる。
彬が九歳になる年の春、お隣に陽月という三人兄弟が引っ越してきた。三男の攸弥は彬と同い年で、そして維と同種の変人だった。おまけに最悪なくらい性格が悪く、彬は珍しく初対面で攸弥と大喧嘩した。口喧嘩ではなく殴り合いの大喧嘩だった。自身を温厚でどんなことでもたいていのことは笑って許せると信じていた彬は、そんな認識を潔く撤回し、コイツだけは許せねぇと派手に殴り殴られた。
攸弥は気に入らなかったが、彼の兄ふたりはとても良い感じの好青年だった。いや、長男は一癖も二癖もありそうだが、彬に実害があるわけではないので問題ナシと判断しただけだったのだが。しかし次男の徹は、実に優れた人格者だった。なんだかあの兄と弟に挟まれてとてもまともに育った感じだ。
おまけに何もできない兄と弟のせいで、彼は家事全般が得意だった。時々真神家と陽月家はお互いの家に呼び合って夕飯を共にする。その時徹は実に手際よく料理をこなしていた。洗濯物を干している姿を毎朝見かけるし、兄弟をせっついて掃除している姿も日常的だ。
徹は維と同い年で、同じ高校に通い始めた。社会的に問題児と認定されていた維を、個性と受け入れるだけの懐の広さを持っていた。そしてなんと、基本的に人に興味がなく誰のいうこともきかない維が、耳を傾けた最初の他人となった。これは奇跡だと真神家の人々は喜んだ。
徹を通して人の話をきくことを覚えた維は、自分の世界にのめりこむ習慣はなくならなかったが、以前に比べて人に対して友好的になった。視野が広がり、積極的に人に話しかける姿も見られるようになり、高校生活は順風満帆に見えた。
対人関係能力が上昇したとなれば、残すところの問題は家事だ。
これは本当にどうにもならなかった。それゆえに窈の「いい男捕まえなさい」という言葉は重かった。対人関係がマシになったとはいえ、マシなだけで人並みの水準にははるか及ばない。人付き合いが広がった分、維が変人であるという事実も広がったというわけである。男たちの中で、
維=すんげぇ美少女だけど変人
維=非常識な天才
維=俺にはちょっと相手は無理かな
維=女として対象外
という図式が、付き合う前から男性諸君の間で成り立ってしまったのである。
それに維自身も、恋人、というものにそれほどの魅力を感じていないようだった。恋愛に興味がなかったのか、それほど執着を持てる相手がいなかっただけなのか。
そんな彬にも、かつてご近所さんでさえ心配になるほど心配な点があった。
それは姉の維についてだ。
彬には八つ上の、歳の離れた姉がいた。彬と同じく飛びぬけて美人で、そしてどこか何かを母親の腹に置き忘れて生まれてきたんじゃないかというくらい頭が良かった。おそらく忘れてきたのは常識とみんなが思っている。
維は見た目だけなら完璧だ。でも中身はとんだ問題児で、ご近所の方々はみながみな障らぬ神に祟りなし、とちょっと避けて通る。だからといって嫌われ者というわけではない。皆コイツこの先どうなるのかなと心配していたのだ。弟でさえも。
彬が十代前半の頃、彼はとある事情で先が長くない予定だった。自分の命の刻限を考えた時、とてもとてもとーっても心配になったのは姉のことだった。
維は美人で頭もいいし、弟である彬のことをとても大切に思ってくれている。というか溺愛と言っても過言でないほど愛されている自身があった。
彬が八つの時、両親が亡くなった。祖母が姉弟を引き取ってくれたので生活には何の支障もなかったのだが、家事くらいは手伝わなくてはならない。しかしここで問題が発生した。
維は家事の一切ができなかった。
料理→ゴミ箱逝き
掃除→片付けないほうがマシ
洗濯→しわくちゃ生乾き
裁縫→怪我用心
万事が万事この調子で、祖母に、
「いい男捕まえなさい」
と、言われるのに時間はかからなかった。
できない姉を追い越して、弟の彬は家事が得意だった。すぐに覚えた。維はなかなか諦めなかったが、一緒に暮らしていた叔父に「食えなきゃ残飯、家具は一期一会、やり直す時間と金がもったいない、怪我は生きてりゃ治るけど血のシミはなかなか落ちないんだよ」と諭されおとなしく引き下がった。
負けず嫌いの維だが、引き際は心得ていた。
維が駄目なのは家事だけではなかった。人としてもちょっとアレだった。
彼女は基本的に人に興味がなかった。対人関係がまったく駄目というわけではないが、自分の世界に閉じ篭りがちで、人付き合いがヘタクソだった。維の頭は突然に、この世界から切り離しされる。
彼女のこの現象は、幼少の頃、「コロッケは油で揚げると浮くのに泥饅頭は水に浮かない」と砂場で遊んでいる時不思議に思ったところから始まった。ちなみにこの後、姉は熱した油に泥饅頭を落として母を仰天させ父と懇々と語り合うことになった。姉の行為を頭ごなしに叱るような両親ではなかったことは、姉にとって幸いだったに違いない。
世界にはたくさんの「何故?」があって、それがポッと頭に浮かぶと、それだけで彼女の頭はその「何故?」の世界に飛んでしまう。その世界が数式や文字で埋め尽くされているのかどうかは誰も知らない。だが解明されるまで誰にも邪魔できないということはわかる。
そんな彼女に、時々人は付き合いきれなくなる。恋人に「君は僕には理解できないよ」と、突き放されて別れることもしばしば。離れていった人たちに維は「別に律儀に理解してくれなくていいのに」と言う。寂しさを紛らわせるためとか強がりでもなんでもなく、維は本心からそう思っている。
彬もそう思う。人が人を完璧に理解できるという考えは傲慢だ。そもそも維がそういう人間であると、はじめからわかっていてお付き合いを始めたに、いざ付き合ってみると理解できないと異物を見る目で拒絶する。維の独自の世界に自分が入れない悲しさと寂しさを、「理解できない」という拒絶に置き換えて離れていく意気地のなさに、彬は何度も怒りを覚えた。そして放れていった男が次に付き合うのは顔も中身も平凡な女性なのだ。結局彼らには維と付き合えるだけの器量も才能もなかったのだと、そこで露呈している。
維は変人で生活破綻者で、そしてある種の天才だ。そんな人間を、凡庸たる彼らに支えられるはずがない。
だが、凡庸であることが悪ではなかったのだと、彬は知ることになる。
彬が九歳になる年の春、お隣に陽月という三人兄弟が引っ越してきた。三男の攸弥は彬と同い年で、そして維と同種の変人だった。おまけに最悪なくらい性格が悪く、彬は珍しく初対面で攸弥と大喧嘩した。口喧嘩ではなく殴り合いの大喧嘩だった。自身を温厚でどんなことでもたいていのことは笑って許せると信じていた彬は、そんな認識を潔く撤回し、コイツだけは許せねぇと派手に殴り殴られた。
攸弥は気に入らなかったが、彼の兄ふたりはとても良い感じの好青年だった。いや、長男は一癖も二癖もありそうだが、彬に実害があるわけではないので問題ナシと判断しただけだったのだが。しかし次男の徹は、実に優れた人格者だった。なんだかあの兄と弟に挟まれてとてもまともに育った感じだ。
おまけに何もできない兄と弟のせいで、彼は家事全般が得意だった。時々真神家と陽月家はお互いの家に呼び合って夕飯を共にする。その時徹は実に手際よく料理をこなしていた。洗濯物を干している姿を毎朝見かけるし、兄弟をせっついて掃除している姿も日常的だ。
徹は維と同い年で、同じ高校に通い始めた。社会的に問題児と認定されていた維を、個性と受け入れるだけの懐の広さを持っていた。そしてなんと、基本的に人に興味がなく誰のいうこともきかない維が、耳を傾けた最初の他人となった。これは奇跡だと真神家の人々は喜んだ。
徹を通して人の話をきくことを覚えた維は、自分の世界にのめりこむ習慣はなくならなかったが、以前に比べて人に対して友好的になった。視野が広がり、積極的に人に話しかける姿も見られるようになり、高校生活は順風満帆に見えた。
対人関係能力が上昇したとなれば、残すところの問題は家事だ。
これは本当にどうにもならなかった。それゆえに窈の「いい男捕まえなさい」という言葉は重かった。対人関係がマシになったとはいえ、マシなだけで人並みの水準にははるか及ばない。人付き合いが広がった分、維が変人であるという事実も広がったというわけである。男たちの中で、
維=すんげぇ美少女だけど変人
維=非常識な天才
維=俺にはちょっと相手は無理かな
維=女として対象外
という図式が、付き合う前から男性諸君の間で成り立ってしまったのである。
それに維自身も、恋人、というものにそれほどの魅力を感じていないようだった。恋愛に興味がなかったのか、それほど執着を持てる相手がいなかっただけなのか。