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恋は一時の迷い

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『恋は一時の迷い』

医師の知人がいた。彼は母を亡くし、その数年後には愛する妻も亡くした。悲しみに耐えきれず、思い出が詰まる故郷を捨てて、思い出のない町に来た。思い出がびっしりと詰まった一冊のアルバムを持って。
妻を亡くしたときから彼の時計は止まった。それが一人の若い女性に出会い、心を寄せたときから、また彼の時計が動き始めた。その彼女というのが、同じ病院に勤めていた女性医師である。彼女は美しくて気高い。これまで多くの男たちの恋の告白を笑って受け流していた。
  
 十月、月が美しく映える秋の夜である。
彼は今宵こそは恋心を発露しようと彼女を洒落た居酒屋に誘った。そこはビルの二階にあり、月が照らす美しい夜空を眺めながら食することができる。
窓辺のテーブルに着いた。
「綺麗な月ね」と彼女は外を眺めながら呟いた。
「そういえば、金木犀が咲いていたな。もうすっかり秋だ」
「あのね。相談があるの」と先に切り出したのは彼女の方だった。
恋を告白するのは、彼女の話を聞いてからでも遅くはないだろう。そう思って、「どんな話?」と聞いた。
「あのね、好きな人ができたの?」
「そりゃよかったな。で、どんな人?」と平静を装ったけれど、内心穏やかではない。
「どんな人だ?」と聞いた顔は少しこわばっていた。
 彼女は少女のように顔を赤らめ、「Xさんなの」と告白した。
 Xは同じ病院に勤務する医師で、決して悪い男ではないが、盛りのついた種馬みたいな男で、女とみれば次々と手を出す男である。
「あんな奴は止めとけ」という言葉が出かかったが止めた。恋はどうすることもできない。「熱くなるな」と言われればかえって燃え上ってしまう。悪く言えば、嫉妬と勘違いされよう。「ここは黙って聞くしかない」と思った。
 彼女は出会いから、そしてデートのことまで事細かく話した。彼は悟った。自分に一縷の望みもないことを。
「なぜ、そんな恋の話を俺にするんだい?」
「初めてあなたに会ったときから、死んだお兄さんだと思っていたの」
 彼女には優しい兄がいた。十七歳のときに死んだが、その死んだ兄に、「顔や話し方がそっくりだった」と言うのである。生きていれば、やはり彼と同じ三十六になっている。
「いつしか、死んだ兄とダブらせ慕うようになった」と彼女が言う。そのせいで、ときに妹のように甘えてしまったと。それが、「自分に気があるのではないか」と彼を勘違いさせた。
泣きたい気持ちを抑えて、「そんなに似ているのか」と照れ臭そうに笑った。
 彼のポケットには買った指輪があったが、それはしまったままだった。

 その後で、「彼女と種馬みたいな奴はうまくいっているのか?」と彼に聞くと、首を振った。
「種馬の野郎はすぐに彼女を捨て、別の若い看護婦と良い仲になった。失意に陥った彼女は突然、病院を去ったよ」
「引き止めなかったのか?」
「彼女の中では、俺は亡くなった兄だ。引き止めて何になる?」
「人生はいろいろだな。それに、『花開けば風雨多し、人生別離多し』と言うから」と慰めてみたものの、彼は聞いていなかった。
 数日後、彼は、「古くからの友人から手紙が着た。『沖縄に来ないか』という誘いの手紙だ」と言った。
 「青い海にずっと前からあこがれていた。その青い海を見ながら働きたいと思っていた。この町で、独りぼっちで生きていく自信はない。この町を離れて、もう一度、自分を見直してみたいと思っている」
「今でも彼女のことが好きなのか?」
「恋をしたのは一時の迷いだよ。第一、七歳も離れているんだ。一時の迷いに決まっているだろ」と笑みを浮かべたが、その眼は決して笑っていなかった。


作品名:恋は一時の迷い 作家名:楡井英夫