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不見山

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   一

「紫陽花が好きです」
 隣に腰掛けた少女は周囲をはばかるように囁いて、まぶしいものを見るようにほんの少しだけ目を細めた。紫陽花の季節には遅すぎる夏の昼下がりだが、窓から差すは生い茂った深緑からの木漏れ日で、照りつけられる背中にも柔らかだ。がたがたと揺れながら木々の間を進む列車に空調はなく、しかし開け放した窓から通り抜ける風だけで十分に心地よい。いや、より適当な言い方をするならば、この場にそういった人為が入り込む余地を僕は知らぬ。日差しは海の底から見上げたならばこのようであろうというように、行き過ぎる木々の葉の合間からきらきらと覗いている。風は手にとってみることができそうなほど、まるで絹のようにさらりとして、森閑としたこの車内に心地よく揺れる音の他、幾重にも輪唱される蝉の声や、せせらぐような葉擦れの音を届けてくる。この場において、僕という存在こそが弊竇であるとの感慨は、さほど行き過ぎだとは思われまい。
 少女はこちらにその小さな顔を向けると、僕の表情を伺うようにして上目遣いをした。その仕草にも、どこか遠慮がちな様子がある。僕たち以外に乗客のない車内である。彼女もまた、単純な言葉を使えばこの風流というものへ、闖入する意思のないことを態度にて表明したにすぎない。僕を見上げる彼女と目を合わせようとすると、彼女はその黒く澄んだ瞳の中に、何か見せてはいけない秘め事のあるかのように、ついと目をそらし、木々のきらきらへと視線を投げる。僕がどうして紫陽花が好きかと問うと、また静かな声で言う。
「欲張りですから」
作品名:不見山 作家名:秋涼いちる