傀儡士紫苑 in the Eden
憤怒する〈般若面〉が牙を剥く。
「退け、木偶の坊! 退かないならコロス!」
「やれるもんならやってみな!」
大男は指を鳴らし、ニヤリと下卑た笑いを浮かべた瞬間だった。
風が唸った。
噴出す血汐が〈般若面〉を鮮血に染める。
大男の首が止まらぬ血を噴出した。
〈般若面〉を被る少女の手に握られている裁ち鋏から滴る紅い雫。
その裁ち鋏は布ではなく、肉を斬るために手を加えられた鋏。内刃だけでなく、側面を研磨された両刃の鋏だったのだ。
崩れ落ちる躯を尻目に〈般若面〉の少女は地獄の扉を開けたのだった。
へヴィメタルのBGMが耳を攻撃し、半裸の男女が叫びながら踊り狂っている。〈般若面〉の少女が室内に侵入したことに気付く者はない。気付いたとしても、気に止めるものもいないだろう。
強烈なドラッグでトリップして、悪魔に魂を売り飛ばす。
現代版のサバトが行なわれていたのだ。
人ごみを掻き分けて〈般若面〉の少女は奥の部屋へと足を進めた。
裁ち鋏を隠し持つ少女の手は汗ばんでいた。この先に待ち構える敵を感じているのだ。
ドアを守る男の頚動脈を切り裂き、〈般若面〉の少女は奥の部屋へと踏み込んだ。
下男たちを従え、妖女は長椅子に腰を掛けていた。
「血の香を纏う般若の化身か……妾になに用じゃ?」
玲瓏たるささやきが、近くにいる男どもを惑わす。
胸元が大きく開かれた黒いレザースーツに身を包む女。その女、紫苑と一線を交えた謎の妖女であった。
〈般若面〉の少女は辺りを見回しながら激怒した。
「貴様らが攫った生徒はどこだ!」
妖女は不思議な顔をしながら思考をめぐらせ、ふと邪悪な笑みを浮かべた。
「ほほほほほっ、汝と同じ制服を着た女がいたな。彼奴か、彼奴を探してここに着たのかえ?」
「そうだ、彼女を返せ!」
「それはできぬな」
「なぜだ!」
〈般若面〉の少女が強く詰め寄ると、妖女は艶笑した。
「あの女は妾の咽喉を潤してくれたぞよ。処女じゃった」
「犯したのか!」
「血を飲んだ」
「外道がッ!」
叫び声をあげて〈般若面〉の少女が妖女に襲い掛かった。
妖女を守るように三人の男が壁となる。
裁ち鋏が肌を裂き、肉を抉り、鮮血が雨のように降り注ぐ。
壁は人間だった。特殊な力を持っているわけでもない、ただの若者だったのだ。
躯の山を目の前にして、ただひとりこの場で笑う妖女。
「よい薫りじゃな」
妖女は顔に跳ねた血を手の甲で拭い、その手を妖しく伸ばされた舌で舐め取った。
その瞬間、妖女の眼が朱色に輝いたような気がした。
「人外の魔性か……」
と、呟く〈般若面〉の少女に対して、妖女もまた呟く。
「般若面に宿りし怨霊……汝も人外じゃろうて」
「……うるさい!」
なにが〈般若面〉を憤怒させたのか?
〈般若面〉の少女が妖女に飛び掛った。
余裕か嘲りか、妖女は裁ち鋏の一刀を手で受けた。
しかし、手では鋭利な刃を受け止めきれず、鮮やかに指が落ちた。
〈般若面〉は燃え揺る瞳でしかと見た。
切り落とされた妖女の指が再生する。
「斬っても無駄じゃ。たとえ灰になろうとも死なぬ」
それは不死ということか?
その言葉を理解しながらも〈般若面〉の少女は再び攻撃を繰り出す。
妖女は両手を広げ無防備な姿を晒した。
渾身の一撃が妖女の心の臓を突く!
妖女は艶笑していた。
心臓を刺されながらも微動だにせず、艶やかな笑みを浮かべているのだ。
「避けろ呉葉!」
誰が叫んだのか?
妖女が大きな口を開き乱杭歯を剥いた。
心臓に裁ち鋏を突き刺し、妖女に寄り添い重なる〈般若面〉の少女の首筋に、妖女の毒牙が襲う。
避けるには間に合わなかった。
しかし、それよりも早く煌いた輝線。
妖女の首に奔る輝線は一変して紅く転じ、ずるりと首が堕ちたのだ。
堕ちた首は嗤っていた。その瞳は部屋の奥に立つ美影身に向けられている。
――傀儡士紫苑。
「偶然だな」
呟く紫苑。
そう、偶然だった。
決して紫苑は妖女を追って来たわけではなかった。
〈般若面〉の少女――呉葉は妖女と間合いを置いて、現れた紫苑に視線を向けた。
「また……助けられたな」
その口調に恩義はない。
紫苑は妖女に向けていた視線を呉葉に一瞬だけ向けた。
「制服は着替えろといつも言っているはずだ。足がつく」
「うるさい、一刻を争う事態だったんだ」
しかし、それも最悪な結果として終わってしまった。
妖女は床に堕ちた首を拾い胴に乗せると、動きを確かめるように首を回した。もう首には傷痕など残っていない。
紫苑は妖女を見据えていた。けれど、声は呉葉に掛けられた。
「ここは引け、勝てる相手ではない」
「冗談じゃない、引けるものかッ!」
妖女への怨みが沸々と腸を煮え繰り返す。
呉葉が再び妖女に刃を向ける。
だが、それは紫苑によって止められてしまった。
刹那にして振るわれた妖糸が呉葉の肢体を拘束した。
「なぜ止める!」
「勝ち目がない……私にも」
その紫苑の言葉を聞いて、妖女は大そうな笑みを浮かべた。
「おほほほ、妾に恐れをなしたかえ?」
「違う」
紫苑の声に恐れは含まれていない。
「今は勝つ術がない。それだけのことだ」
首を飛ばしても死なない。
先に一戦を交えたときも、妖女は成れの果てに変貌を遂げたが、その妖女は今ここにいる。前の妖女は本物だったのか?
ひとつはっきりしているのは、通常の攻撃では倒せそうもない。
紫苑の手から妖糸が豪雨のごとく放たれた。
倒せぬとわかっていてなぜ振るう?
妖女も死なぬとわかっているためか、避ける仕草も見せずに連撃を全身に浴びた。
柔肉が細切れになり、血溜りが床を浸蝕する。
床の肉塊は、あのときのように肉塊のままではなかった。
肉塊を土壌として、骨が枝のように伸び、内臓が果実のように実ろうとしていた。
妖女は生成しようとしていた。
だが、それを待っている理由はない。
紫苑は妖糸に拘束された呉葉を抱きかかえ、出口に向かって疾走した。
「放せ!」
抱きかかえられている呉葉が叫んだ。けれど紫苑は耳を貸さない。
ドラッグと音楽に酔いしれる若者たちは、部屋の奥で事件が起こっていること知る由もないようだった。
紫苑は人ごみの中を掻き分け、建物を出て裏通りに姿を見せた。
空はダークブルーに染まり、星々が妖しく輝いている。
疾走する紫苑に抱きかかえられた呉葉が喚く。
「勝つ術がないなど嘘だ! なぜ戦わない!」
「……さて?」
「貴様には召喚があるだろッ!」
傀儡士の奥義――召喚。
「あの場所では召喚も使えまい」
それも一理ある。強大な存在が?こちら側?に現れれば、周りはただでは済まない。狭い部屋は当然のごとく破壊され、壁を隔てた一般人にも危害が及ぶことは必定。
だとしても、呉葉は納得しなかった。
「なにが目的だ!」
「術を整えてから挑む……それだけのことだ」
紫苑の脳裏に再生させる妖女の言葉。
――蘭魔。
自室にこもっていた愁斗は暗闇から明るい廊下へと出た。
鼻に香るアルコール臭。
酒臭い。
作品名:傀儡士紫苑 in the Eden 作家名:秋月あきら(秋月瑛)