傀儡士紫苑 in the Eden
今の自分は冷静ではない。車に屍体があるせいで、冷静ではないのだ。アヤは頭を冷やしながら廊下を早足で引き返すことにした。
歩くスピードは徐々に速くなり、ついにアヤは走り出していた。
曲がり角の前の廊下を抜けようとしたとき、その角から人影が飛び出して来た。アヤは避けきれず、その影とぶつかってしまった。
アヤは小柄な影を押し倒して、相手の胸に手を付いて上乗りになっていた。手を退けながら相手の顔を確認すると、それはメイドのアリスだった。
「お怪我はございませんか?」
アリスにまん丸の瞳で顔を覗きこまれ、アヤは立ち上がって胸の前で両手を小刻みに振って見せた。
「怪我はないわ」
「それならよろしいのでございますが……お急ぎのようでしたが、なにかございましたか?」
「いいえ、なにも。少し道に迷ってしまって……」
「あまり屋敷の中を歩き回らないでくださいませ。他の者は〈眠り〉についております」
他の者とは誰のことを示す言葉か?
仕える主人を他とは言わないだろう。愁斗のことだけならば、他という不特定な言い方はしないような気がした。
そこでアヤは疑問を投げかける。
「この屋敷の主人と、あなたと愁斗以外にこの屋敷には人がいるの?」
「ええ。しかし、先ほども申し上げましたが、他の者は〈眠り〉についております」
さっき見た愁斗と謎の女性は起きていた。本当に他の者が眠っているのか、勘ぐりたくなる。
けれど、生活音がまったく聴こえてこないことから、本当に寝てしまっているのかもしれない。
アリスは瞬き一つせず、アヤの瞳を射抜くように見つめた。
「お部屋までご案内いたしましょうか?」
「結構よ、もう道がわかったから」
「万が一ということもございますので、お部屋までお送りさせていただきます」
「……わかったわ」
アリスに先導され、無駄な道を通ることなく部屋に帰された。これがアリスの意図だったのかもしれない。
疑惑の眼差しでアリスを観察することにより、アヤはあることに気づいたのだ。
部屋の中に入り、アリスが一礼して部屋を出て行くのを見届け、アヤはほっと肩を撫で下ろした。
そして、アヤはアリスへの疑惑を深めていた。
アリスはまったく瞬きをしていなかった。そう、それが人間味に欠けると思っていた要因だったかもしれない。
それに加え、些細な疑問であるが、アリスを押し倒したときに触れた胸。そこには胸とは違う硬いなにかがあったのだ。ネックレスなどの装飾品にしては、鷲掴みにできるほどに大きく、そこに固定されているように手を退かすときも動きはしなかった。
疑惑を持てば切りがない。
テレビもなにもないこの部屋で、仕方なくアヤはベッドに潜ることにした。
一方、アヤを部屋に案内し終えたアリスは、廊下に出てからドアを閉め、少し歩いたところでおもむろに上着を脱ぎはじめた。
そして、ブラウスのボタンをひとつずつ外して、陶器のように白い胸元を露にしたのだった。幼く小さな胸の間には蒼く輝く宝石が埋め込まれていた。そう、肌に直接、宝石が埋め込まれているのだ。
アリスは謎の宝石を丹念に調べる。
「……大丈夫。けれど、謝りもしないなんて……死ねばいいのに」
不気味に口元を歪めて呟いたアリス。
宝石には傷一つ付いていなかった。アリスはそれを確認したのだ。
この宝石はいったい……?
外ではまだ豪雨が降り続けていた。
吹き付ける強風が揺らす窓からは、曇る空の色が見える。
夜はすでに明けていた。
しかし、曇天の空は暗く、空だけでは時刻を知ることはできない。ただ、夜よりは明るい、それだけだ。
ケータイで時刻を確認したアヤはベッドで上体を起こした。
目の下には隈ができ、よく眠れなかったことを物語っている。
部屋をノックする音が聴こえた。
ゆっくりとドアに近寄り開けると、愁斗の顔がアヤを覗いていた。
「朝食を持ってきました」
トレイに乗せられたトーストや薫り立つコーヒー。
「飲み物はコーヒーでよろしかったですか?」
「ええ、好きだから……」
アヤはトレイを受け取ると、愁斗は自然な動きで部屋に足を踏み入れて来た。
「ところで、昨晩は屋敷を歩き回っていたそうですが、なにをしていたのですか?」
勘ぐるアヤは疑問を抱く。なぜ、わざわざこんなことを聞いてくるのだろうか?
「興味本位で、ただ意味もなく歩き回っていただけよ」
答えるアヤの瞳を愁斗がなにかを詮索するような目つきで注視している。
だが、愁斗はそれ以上のことはなにも口にしなかった。
用事の済んだ愁斗は部屋を出て行こうとする。
「では……」
「ちょっと待って、そう、あの頼んで置いたこと。あたしを送ってくれるのを昼にして欲しいって件」
「主人に話しましたところ、その件については問題ないと……ただ、昨晩から続く大雨のために道がぬかるみ、車を出せるか疑問とのことです」
アヤに予感がした。
まさかとは思うが、自分を外に出さない気だと思ったのだ。
「もう今日は仕事を休むことにしたけど、今日中に帰れないのは困るわ」
「ですが、車が走れない以上、帰るのは難しいと思います」
「電話を貸してくれないかしら、ケータイが圏外で使えないのよ」
「電話はありません」
その言葉にアヤの焦りは色濃くなった。
会社は無断欠勤になってしまった。のちに?行方不明事件?で警察に事情聴取をされたら不利だ。計画では昨日うちに屍体を捨てて、今日はなに食わぬ顔で会社に出社する予定だったのだ。
欠勤の理由を会社に言い訳する機会も与えられないばかりか、電話がなければこの屋敷でなにかあっても助けを求められない。
この屋敷に住む人々への不信感は募るばかりだ。
一刻も早くアヤは屋敷を離れたかった。だが、未だに大雨の降る山に、ひとりで出る気にもなれない。
まだ、屍体も車に残してきたままだ。
なにから片付けていけばよいのか、アヤはパニック寸前だった。
「そうだ、まだ主人に挨拶してなかったわ。この屋敷の主人に会わせて欲しいのだけど?」
「昨晩は、主人はお休みになっていますと言いましたが、実は主人は人と会うのが嫌いなのです」
もうアヤの耳にはすべて言い訳にしか聴こえなかった。疑心暗鬼も酷くなっている。
「主人に会わせなさい! 直接話して、車を出してもらえるように頼むわ!」
怒鳴るアヤに愁斗は沈黙した。恐縮しているのではない、なにかを考えているのだ。
しばらくして、愁斗は口を開けた。
「実は主人は口が利けないのです。ですから、人と会うことを拒んでいます」
だからこんな人里を離れた山奥に屋敷を構えて暮らしているのか?
しかし、アヤの耳に入ることは全て嘘になる。
「信じられないわ。どうしてあたしに会わせたくないわけ?」
「ですから、主人は口を利けないからです」
「そんなの嘘、あたしに会わせたくない理由があるのでしょう?」
「……わかりました。主人を説得してきます。ただ、主人を見ても驚かないようにお願いします」
驚くとは――なにを?
昨晩アヤが見た謎の女性。アヤが見た限りでは?顔?がなかった。もしかしたら、本当に顔がないのかもしれない。
「しばらくお待ちを……」
作品名:傀儡士紫苑 in the Eden 作家名:秋月あきら(秋月瑛)