月明かりの道
夜道の明るさにふと、空を見上げる。
仕事帰りの疲れた目に飛び込んでくる、白く丸い月。
柔らかな、けれど鮮やかな光が目にしみて、少し痛いぐらいだ。でもその痛みがなぜか心地いいから、目を離せない。
「変なこと言うなぁ。もしかしてM?」
初めてその想いを打ち明けた時、あの人はそう言ったっけ。
「ていうかさ、前触れなしにいきなり立ち止まんのやめなよ、危ないから」
何度そう注意されても、ちっとも直せなかった。
夜空の月、雨上がりの虹、夕焼け空に飛ぶ鳥の群れ、夜明けの星。見つけてしまうと目を離せなくなってしまう私に、呆れたのかあきらめたのか、いつしか付き合うようになってくれた彼。他の人や車の邪魔にならないようさりげなく脇に移動させて、私が飽きて我に返るまでずっと隣にいてくれた。
――けれど、いなくなってしまった。交わした約束よりもずっと早く。
失われた日のことを思い返すと、今でも胸が痛む。月の光が目から喉へ、肺の中に染みとおって、つめたく冷やされるような心地を覚える。
世界が凍る錯覚に陥る私の意識を、引き戻す声。
「やっぱりまただ。もう」
呆れと少しの憤り、それ以上の心配を含んだ声は、私の心を温かく満たしていく。
「今日は早いって言ったのに、遅いから見に来たら。いいかげん気をつけなよ」
「そんなに遅くなってないわよ」
「何言ってんの。もう9時過ぎてるよ」
「え、そんな時間なの?」
「……まったく、もう」
その表情も、言い方も、声も、とてもよく似ている。最近特にそう思う。
「いつかほんとに事故に遭うよ。月がきれいでぼーっと見上げていたから車に轢かれました、なんて連絡受けんの嫌だよ俺」
「うん、ごめんね。気をつける」
「……なに、素直じゃん」
「私はいつも素直だけど?」
「どこが、……。まあいいや、とにかく帰ろう。メシ作ったからさ」
つながれる手はあたたかい。嫌がった時期もあったのに、いつからか自然に、そうしてくれるようになった。知らず微笑みがもれる。
「なに?」
「ううん、別に――私の方が子供みたいだなと思って」
「子供より危なっかしいじゃん母さん。目え離せないよ」
その言葉に、もっともだと思うより先に吹き出してしまった。全く同じことを、結婚前にあの人にも言われたから。
本当にこの子は、父親によく似てきた。手のひらの大きさも背丈も。
――あの人もどこかから見て、同じように思っているだろうか?
「ごめんね、早く帰ろう。ごはん冷めちゃうよね」
「とっくに冷めてるって。でもすぐあっためるからさ、母さんはちょっとでも休んでなよ」
「うん、ありがとう」
家までは、もうすぐだ。街灯の光が強くなった道を、けれど変わらずに世界を照らす月明かりを感じながら、確かにそばにある温もりと幸せを噛みしめた。