音楽レビュー
マルチヌー『交響曲全集』
マルチヌーの音楽は、不定形の断片たちが、無を媒介に崩れ落ちていく、その解体の運動を表現している。旋律はまとまった塊とならず、いくつもの伸び縮みする音の断片たちが浮動している。そしてこの断片たちの間に無が介在しているのだ。この水平的な無は、いわば意識と対象との間隙、主体と客体との間隙のように、現象即ち音楽の根本にある垂直的な無の絶えざる投射である。彼の音楽はブロックを積み重ねていくような音楽ではなく、不定形の滅していく短い時間を、速やかに消去してあとに何も残さない、そういう音楽である。
マルチヌーに呼びかけてみる。あるいはマルチヌーと戦おうとする。すると、返ってくる返事は、「それは人違いです」。彼の音楽は自己の同一性を絶えず変えていき、聴く者が真剣にそれに絡もうとすると、いつの間にか別物に変わっていて、聴く者は肩透かしを食らわせられる。聴く者は、同一性を変化させる彼の音楽の全体をとらえて、そこに包括的な同一性を設定せざるを得ないが、これは功を奏さない。常に新たな全く別の同一性が作り出されていくからだ。
彼の音楽は単純でない。力強く響くときも、その力に対する懐疑を秘めている。弱々しく響くときも、その弱さを嫌って反動で無鉄砲な力を発する。能動的でも受動的でもなく、ただそこで即自的に演じている音楽。すべての極端を嫌い、かといって中庸も嫌うがゆえに、彼の音楽は常に極端から中庸へ、あるいは中庸から極端へという運動の過程にある。不定で運動で即自的であること。そして絶えず解体していき後に何も残さないこと。そこに見てとられるのは、人間がいくらあがいても到達できない自然というものだ。イデアを夢見る人間が決して到達できない、生成消滅の端的な流れである。