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青息吐息日記

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 僕がなぜ兄貴の高校生活を詳しく知っているかというと、兄貴の友達が家に来るたびに、そういう武勇伝的なものを無理矢理聞かされたってのもあるんだけど、もうその時点で、木津順平は巷じゃ『伝説』みたいになっていたからだ。兄貴が助けたのは学校の人間だけじゃない、自分の周りにいる人間すべてだった。
 兄貴は近所でも「よくできたお子さんですねぇ」「ほんと、うちの子も見習ってほしいわー」なんて毎日どこかで囁かれるようになって、いよいよ僕は恐くなる。一応言っておくけど、立派な兄貴の隣で平凡な意気地なしに育った僕が、駄目な方向に屈折していったわけじゃない。そりゃまぁ、度胸とか正義感くらいは根こそぎ持っていかれたかもしれないけど。

 僕が兄貴のことをずっと『恐い』と思っていたのは、実は小学生のときにこっそり見た、あるノートが原因だった。
 どうやってそれを見るに至ったかは、覚えていない。記憶に残っているのは、B5のノートにびっちり埋められた濃くて太い文字。そこには、日付の下に「向かいのアジサイが満開になった 堺のおばさんがうれしそうに笑っていて俺もうれしくなった」とか、「後輩の田口に彼女ができたらしい よかった」とか、ずっとそんなことを一日半ページずつきっちり書いてあった。どのページを見ても、誰々がどうして自分も幸せになっただとか何とか……。びっくりした小心者の僕が確認できたのはそれくらいと、表紙の「9」という数字。でも、頭の回転が遅い僕でもわかった。これは兄貴の日記で、「9」という数字はこのノートが九冊目を表してるってことを。
 人の日記を勝手に見てしまった罪悪感と、ちょっとひくというか、当時はただ恐いと感じた内容に、僕はしばらく兄貴と目を合わせられなくなる。あと、ちょっと考えすぎて知恵熱も出る。

 そんな自分的にショッキングな出来事があって、僕を含め家族に優しい兄貴を、心から慕ってはいたものの、どこかであの日記がフラッシュバックして、僕はそれ以来兄貴を避けていたのだった。
 兄貴の興味関心がご近所や学校単位じゃないのは昔からわかっていたし、それが世界に向けられるのも時間の問題だと考えていた。
 やがて大学生になった兄貴は、一人でいきなり旅に出ることが多くなる。顔を合わすことも少なくなり、なんとなくほっとする僕。三ヶ月ぶりくらいに家に帰ってきて、スーダンだかケニアだかのお土産を貰ったときはさすがに心配したけど、相変わらず兄貴は放浪を続けた。
 そして久しぶりに帰省した春休み、偶然見かけたであろう引っ越しを手伝い、芝由香里ちゃんは兄貴に一目惚れする。

          *

 大きな荷物と兄貴を乗せて、バイクが遠く離れていく。田んぼに囲まれた緩いカーブの道路をゆっくり走っていく。対向車線には軽トラが一台、すれ違ったと思うとすぐに距離が開いていった。「中古車買い取ります」を書かれた大きな看板の下を通り過ぎると、黒いバイクはほとんど点になって、瞬きをしたら見失った。

 兄貴は行ってしまった。

 今度はもう、帰ってこないと思う。どこの国に行くのかは知らないけど、例え帰ってきても十何年後とか、何十年後とか、そんな感じ。まぁ母さんや父さんが死ぬときは、ちゃっかりそばにいそうな気はするけど。
 家族みんなで兄貴を家の外まで送ろう、ってことになっても、由香里ちゃんは僕の隣でずっと黙っていた。網膜に兄貴の姿を焼き付けてやる、ってくらい見つめてたけど、結局最後まで何も言わなかった。

 冷たく吹いた秋風に肩が強張る。十月にしては寒いなぁ、と思いながら、パーカーのチャックを上まであげた。ミニスカで細い足むき出しの由香里ちゃん……これ寒くないのかな?
 母さんや父さんは、もうとっくに戻っていた。あっさりしている人たちだ。みんな由香里ちゃんを見習え。でも僕も正直、早く家に入りたかった。(だって寒いし)
 僕の部屋にいたときは目が赤かったけど、兄貴の前や今では何事もなかったかのように落ち着いている由香里ちゃんは、やっぱり大人だな、と改めて思う。くるくるふわふわの髪が風になびいていて、僕はあの春の日を思い出す。でも、決定的に違うことがあった。

 僕は今、由香里ちゃんの隣にいるんだ。

 何か言わなくちゃ、と思った。
 傷ついた由香里ちゃんを慰める一言を……。そういえば今日(だけじゃないけど)、由香里ちゃんに会ってからずっとそういう気の利いたことを言ってない!

「別れるの?」

 よりによって、口から出たのはそれだった。
「……誰が」
 由香里ちゃんの声が一段と低い。おぉ恐い。
「僕ら」
「……なんで」
「もう兄貴、帰ってこないかもしれないし」
 由香里ちゃんは目をこすって、「信平くんは……」と言った。

──信平くんは、どうしたいの。

 僕は聞こえていたけど、「え?」と聞き返す。すると由香里ちゃんは、「お前聞こえてただろ……むかつく」などと物騒なことを呟き、僕を恐がらせる。よかった、いつも通りだ。
「順平くんは、もしかしたら帰ってくるかもしれないし」
「うん」
「それまでに私がもっと可愛くなってればいいんだし」
「うん」
「だからこれで終わりじゃない」
 そこまで言って由香里ちゃんは、僕のパーカーのチャックを全部降ろした。それダサイから、と一撃。
 いつもよりほんの少しだけ優しい足取りで、我が家に入っていく由香里ちゃんの後ろ姿を見ながら、これ以上可愛くなってもしょうがないのになぁ、と僕は思う。
 そんな『僕の』彼女を追いかけて、玄関へと走る。
 後ろで、今日一番の風が吹いた。


作品名:青息吐息日記 作家名:瀬野あたる