青息吐息日記
1
佐名明美は動揺していた。
と客観的に分析してみたところで、俺の置かれる状況が変わるわけでもなかったし、あの告白を聞いてから三時間と十二分が経った今でも、俺の心は自室の勉強机からどこか遠く離れた、暗い森の奥のやけに澄み切った湖の畔にある切り株の年輪くらいぐるぐると渦巻いていて、それはもう混乱の最中って感じだったが、とにかく俺は、三人称で物語を始めたくなるくらい、うろたえていたのだった。
物事を自分で解決できないときにどうすればいいのかを教えてくれたのは俺の父親で、その答えは誰かに相談することだった。でも、その解決すべき問題が誰にも相談できないものだったら……? 自分で決着をつけるしかない。ましてやこれは、俺の問題なのだから。
机の引き出しから、二年くらい前にデパートで買った茶色い皮の手帳を取り出す。当時いろんなことに背伸びしていた俺が、大人っぽいかっこいい! という今思えばどうしようもない理由で、二ヶ月分のお小遣いを犠牲にして購入したものである。少し黄色っぽい下地に灰色の罫線がまっすぐに伸びていて、上質な手帳であることは確かだった。もちろん使ったことはない。
新品のノートというものは、はじめは緊張して丁寧に書いたり気に入らない字を何度も訂正したりするものだが、俺の字は消しゴムで消したところで綺麗になることはなかったし、そんなことにいちいち注意を払う行為が、今はとても無駄なことのように感じた。
そんなわけで、俺は日記を書く。
十八歳の誕生日だった。
*
「で、どうなの? 十八になった感想は?」
プチトマトのへたを取りながら、瀬古が訊いた。
昼休み、クラスの女子はグループで机を合わせて弁当を食べているが、男子も体の向きだけ変えたりして、近くの奴とくだらない話をしているのが大半だ。俺も例外ではなく、三年間奇跡的にも同じクラスになった、瀬古と木津と同じ机を囲んでいる。
俺の神経は目の前の豚の生姜焼きに注がれていて、瀬古の質問にどう答えるかなんて全然考えていなかった。付け合わせのピーマンと玉ねぎが甘辛いたれに絶妙に合っている。昼の弁当という些細なものに、自分が小さな幸せを感じているのがおかしかった。と同時に、これを作ってくれた母親や昨日のことを自然と思い出して、複雑な気分になる。でも、弁当は今日もうまかった。昨日も今日も、何も変わっていないのかもしれない。
黙って弁当を食べていると、ワンテンポ遅れた木津が「十八歳だもんねぇ、解禁だからー」と目を細めて言い、隣にいた芝由香里に「サイテー」と冷たく吐き捨てられていた。芝と木津はこれでも一応付き合っている……のだが、彼女という存在に縁のない俺には理解しがたい事情があるらしく、二人の本当の関係はよくわからなかった。
「明美ちゃん返事してよ」
「……瀬古クン、サイテー」
「ちょっと佐名、真似すんな」
俺の名前をつけたのは母親だ。昔から女だと間違われたり、からかわれた嫌な思い出しかないが、ひそかに「アケミ」という響きだけは気に入っている。響きだけな。
「なんかマジでないの?」と瀬古がしつこいのは、この中で祝・十八歳! になったのは俺が初めてで、木津は十二月、瀬古が四月一日の早生まれだという理由に他ならない。何が変わるわけでもないのだが、何かを期待してしまうわけだ、特に男子は。
「……日記書きはじめた、かも」という俺の呟きは瞬時に拾われ、「えぇー日記? なんで」「ていうか、佐名が日記とか、笑える」「現文の成績2のくせに」「絶対三日坊主になるよそれ」と瀬古と芝はげらげら笑って収集がつかなくなる。するとそこで、芝と弁当を食べていた小金井さんが「そこまで言わなくても……」とフォロー。
ネタになるだろうし何より恥ずかしかったので、俺も日記のことをこいつらに教えるつもりはなかった。それでもつい言ってしまったのは、俺の抱える問題をやっぱり誰かに相談したい気持ちがあったからかもしれない。
面倒なことになったな、と思っていると、それまで黙ってミカンの皮をむいていた木津が「佐名の言う日記ってニッキみたいだね」と訳のわからないことを言い、瀬古が「たしかに、佐名っておばあちゃんっぽいし」と笑い、芝が「ニッキとかハッカとか、わたしキラーイ」と言ったところで、ようやく理解する。『おばあちゃんっぽい』のと『おばあちゃんっこ』は別で、俺はどうやら前者らしいのだが、自分で思うに昔からずいぶんおばあちゃんに懐いていたし、おばあちゃんちで出るあの独特のセンスのお菓子も好きだった。ここで、「俺は『おばあちゃんっぽい』んじゃなくて『おばあちゃんっこ』なんだ!」と宣言してみたところで、ネタでしかないし、変わらず恥ずかしいだけだ。
「そういえば、昨日のカリカリ梅食った?」
木津がむいたミカンを食べながら、瀬古が訊いた。二人からの誕生日プレゼントのことだ。
「まだだけど」
「酢昆布の方がよかった?」
「や、酢昆布は食べねぇし」
「でも酢昆布似合うよね」と木津。
「酢昆布に似合うとか似合わないとかあんの?」
「でも由香里ちゃんもそう思うでしょ」
「まぁね」
こいつらの中で俺という存在はどうなっているんだろうか。
いつもと何も変わらないくだらない話に、少し笑う。
やっぱり、話せなかった。
*
「明美は、お父さんの子じゃないの」
いつもより豪華な夕食のあと、弟の和美が風呂に入ったのを見計らって、俺の母親は言った。だまっててごめんね。
俺の誕生日はエイプリルフールじゃなくて体育の日だということ。母親の顔がマジだということ。父親はソファーに座ってテレビもつけずにお茶を飲んでいること。それがふっと静かに飲み込めたとき、風呂場から「シャンプーなくなったー!」と叫ぶ弟の声がひどく遠くに聞こえ、俺がようやく口にした言葉は「あぁ、そうなの」だった。
少しだけ涙目で話す母親のことをなんとなく冷めた目で見ていたのは、今までの人生で思い当たる節を探すのに必死だったからだ。二人の静かであたたかな雰囲気から、俺の出生を黙っていたことを責める気は起こらなかった。この問題は、あとは俺がどう受け入れるかにかかっているということに気が付いたし、これは俺が解決していかなければならないものなんだ、と半ば確信的に思った。
*
学校前にはバス停があって、生徒の半分以上がそのバスを登下校に利用する。この辺はわりと田舎だから、JRの駅まで車で二〇分はかかるし、学生じゃなくてもたいていの移動はバスか自家用車だ。俺の家はここよりも少し街っぽい、いや町っぽいところだが、電車なんて滅多に乗らない。行きも帰りも、最後までバス。片道三〇分。
結局、瀬古と木津には何も言わずに帰ってしまった。明日から土日だ。月曜くらいには俺の気持ちも落ち着いているだろう。いや、今も落ち着いているといえば、十分に落ち着いているのだ。俺は母親に似て楽観的なところがあるし、例え血は繋がってなくとも父親ゆずりの大雑把な性格なんだ。こんなことで、いちいちうじうじしてられない。