夕陽の色は再生の色 -01
1
まわりは真っ暗だった。
なにも見えなかった。
ただ、真の黒色が目の前にあった。
前も右も左も、上も下も後も、どこを見ても黒一色だった。
自分が目を開けているのか閉じているのかさえわからなかった。
暗黒の世界の中でひとりぼっちだった。
ふいに寒けがした。暗闇の中に、おそろしいものがひそんでいるような気がしてたまらなかった。
走った。
くちびるがさけるほど、おおきくくちをあけ、言葉にならない声をはりあげた。血がふきだすほど、のどがあつくなった。
自分の声なのに、なにも聞こえなかった。暗黒は視界だけでなく、音さえものみこんだ。
走り続けた。
走っても走っても、まわりは墨汁の中のような暗黒の世界だった。
出口はないのかもしれない…
つめたい汗がからだ中からふきだした。
いや…
絶対にある!
根拠もなにもないのに、それはあたかも真実のように心にわきあがった。
目の前にもやがあった。
真っ黒なもや。
まわりと同じ黒色なのに、なぜかはっきりとわかった。かがむことなく、からだがすっぽりとおさまるくらいのおおきさだった。もやから意識をはなすと、まったくまわりと区別がつかなくなった。ふたたびもやを見ようとすると、汗がふきでるほどの集中力が必要
だった。肉眼以外のもので見ているのだとふとおもった。
もやがなんなのか、そのむこうはどうなっているのか、まったく考えもしなかった。
それなのに、なんのためらいもなく、もやの中にはいった。
だれかがよんでいた。こっちへこいとさけんでいた。だれの声かわかっていた。なつかしさがわきあがった。目の奥があつくなるほど、強烈な感情だった。
頭の中に、パッシングのようにひらめいた。
金色の、ながい、やわらかそうな髪をうしろでたばね、みつあみにした女性がいた。
彼女はふりかえり、微笑んだ。人知れずある湖のようなおだやかな深い緑色の瞳が、目に、心にしみとおった。
つられて微笑んだ。
彼女の微笑みはあたたかく、みつめるだけで、最愛のひとに抱きしめられている気分になった。微笑みはまたやさしく、『母親』というイメージがうかんだ。
しあわせだった。
みつめるだけで、ただ、みつめるだけで、しあわせでたまらなかった。抱きしめてもらわなくてもよかった。抱きしめられなくてもよかっただ、ずっと、いつまでもこのままみつめていたかった。
彼女をだれよりも知っていた。名前が喉元までこみあげてきた。
女性のイメージがふいに消えてなくなった。
おもわず手をのばした。もっと、抱きしめるようにみつめていたかった。
金色のひかりのおおわれていた、まわりがいっきに暗くなった。
それも一瞬のことだった。ふと気づくと、あたりはあかるくなっていた。
頭をめぐらせた。
太陽がいくつもあった。太陽は頭上だけでなく、前後左右、下方、彼を遠くからかこんで、いたるところにかがやいていた。
壮観だった。
星々の真っただ中にほうりこまれたようにおそろしくてたまらなかった。
全身にとりはだがたった。全身の毛がさかだった。
ふいにおそろしさはなくなっていた。
恐怖、あるいは畏怖が夢だったかのように、なんの余韻もなかった。
出口はもうすぐそこだった。
なにかをみつけたのでもなく、だれになにをいわれたわけでもないのに、そのことがわかった。
真の闇の世界はもちろん、やさしさの権化のような女性のことも、きれいに頭の中からきえていた。なにもかもが夢だったかのように。
目にひかりがさしこんできた。
2
こおばしいトーストのにおいのする中、バイクの排気音がけたたましくひびいていた。
「ちょっと、忍! バイクとめなさい!」
キッチンから怒鳴り声がひびいた。
「暖気してんだよ!」
米村忍が大声でかえした。
「もお充分あたたまったでしょ! はやくとめなさい! 近所迷惑じゃない!」
母親の友美がまけじとさけんだ。
「とめたら意味ねえだろうが!」
「とめなくてもいいからもっとちいさくしなさい!」
「ちょっと待ってよ!」
「だめ! いますぐ!」
「ゆりは?」
「なんでゆりちゃんがでてくるの! 関係ないでしょ!」
「なあにい、おにいちゃん?」
「ゆり、チョークもとにもどしてくれ」
「なにいってんの! 自分でやりなさい、自分で! ゆりちゃん、行かなくていいからね!」
「おにいちゃん、きょう会社休みでしょ? のっけてってくれる?」
「ばかいわないの。兄妹そろって暴走族だとおもわれるでしょ。どこにいるの、忍!」
「うるっせえな! 二十歳すぎてゾクやってるやつがいるかよ」
忍はトイレットペーパーを乱暴にまきとった。
「ちくしょう! でねえ! ったく、変な夢みちゃって、朝から調子わるいぜ!」
忍はひとりごとを大声でわめきながら、レバーをまわした。ドアに八つ当たりして乱暴にしめ、トイレからまっすぐキッチンへむかった。
「あれ、かあさんは?」
忍がきくと同時にバイクの排気音が消えた。
「そういうこと」
ゆりがトーストをかたてに、りすのようにほおをふくらませていった。
「あー、はらへった」
忍はゆりのトーストをうばい、くちの中におしこんだ。
「あにすんのよ、おにいちゃん! 自分の分は自分で焼いてよね。自給自足だよ」
「なにが、自給自足だよ、だ。おまえ、自給自足の意味……」
ふいに肩をたたかれて、忍はふりむいた。忍の頬にゆびがささった。
「わあい、ひっかかった、ひっかかった」
友美が大笑いしていった。ゆりも手をたたいてよろこんでいた。
「なにがひっかかった、ひっかかっただよ、かあさん。ったく、ガキみてえなことして……」
「はやくたべちゃいなさいよ、忍。かたづかないから」
「うるせえ。自分の都合ばかりいうな。俺はくいたい時にくう」
「あとかたづけ自分でやってくれるのなら、くいたい時にくってもいいけど」
「それは女の仕事。ゆりにいえよ」
「ふるいなあ、おにいちゃん。いまは男も家事をする時代だよ。そんなことじゃあ、きらわれるのも時間の問題だな」
ゆりがトースト片手に、ベーコンをフォークでつきさしながら、得意げな顔でいった。友美もにこにことうなずいた。
忍はゆりの頭にこぶしをおとしていすにすわった。
「いったいなあ! あにすんのよお」
「さあて、しかたねえ。くうとするか」
にらみをきかせたゆりを無視して、忍は食ぱんにくらいついた。
「おにいちゃん…… 焼けば?」
食パンを一枚まるごとくちにおしこみ、忍は目を白黒させて胸をたたいた。ゆりのミルクをうばいとり、のどにながしこんだ。
「あー、死ぬかとおもった……」
といいながらも、忍はまた、食パンをくちの中におしこんだ。
ゆりと友美があきれた顔をあわせた。
「焼いたほうがおいしいのに」
忍はくちを懸命に動かしながら、手と目でパンを焼いてくれとたのんだ。
「もお…… そんなんでよく藍さんにきらわれないね」
ゆりがトースターに食パンをさしこんでいった。
作品名:夕陽の色は再生の色 -01 作家名:alaska