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桜の下の秘か

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 縁側に座り、庭に一本だけ植わった桜を眺めることは春の日課だ。
「おじいちゃん、冷えるよ。また桜を見ていたの?」
 孫娘は呆れたように言って、隣に腰を下ろした。
「おまけにまたその本読んでたんだね。おじいちゃんはその本が好きね」
「ああ、好き……かな」
「何それ。おじいちゃんらしからぬ歯切れ悪い答えだね。でもおじいちゃん、それ以外も坂口安吾は全般的に好きでしょ?」
 はっきりした物言いの孫娘は、後ろの本棚に並べられた坂口安吾全集に目を遣って言った。
「おじいちゃんの初恋の人も好きだったんでしょ?」
「ああ。好きだと言っていた」
 桜の下で、情けなかった自分の初恋の話を話した唯一の相手である孫はその話を好む。彼女の祖母に当たる妻が早くに逝ったためか、祖母への遠慮などもないのだろう。
「とても綺麗で、とても素敵な人だったんだよね」
 そう楽しそうに隣で訊いてくる。
「ああ。あんな美人はそうはいない。中学を卒業して東京に出てきた後もお目にはかかれなかった」
「桜の精みたいな人だものね。もしかしたら本当に桜の精だったのかな」
 夢見がちなことをいう孫娘の内面はどうやら自分に似てしまったらしい。
 外見は彼女に生き写しだというのに。
「それはないだろう。だって彼女は、血の繋がった私の叔母だ」
 そう口にしても痛みに苛まれることがなくなるまでには、あれから随分の時間を要した。
 実の祖父が妾に産ませた子供。 普段は離れから出ること祖父から禁止され、意図的に存在を隠されていたこともあり自分以外の一切に無関心だった頃には知る由もなかったが、彼女は母の妹に当たる人だった。
 かつて祖父が妾を住まわせていたという離れに帰ってきた彼女を偶然目にした時、彼女が他人と言うにはあまりにも母に似ていることに気付いて奉公人を問い詰めた時。
 祖父に言いようのない怒りを覚え、どうしようもないやるせなさに襲われた。
 三親等内の近親婚が許されないこの国で彼女と結婚することは出来ない。共に一生を生きるなど出来るわけがない。籍を入れず共に暮らしていては、あの時代の周囲からの扱いは厳しかっただろう。しかもそれは自分ではなく、彼女にばかり向けられるのだ。そういう時代だった。
「おじいちゃんはおばあちゃんが好きじゃなかった?」
 孫娘は唐突にそんなことを尋ねてきた。やはり実の祖父母の関係だ。気にならないわけもないのだろう。
「好きじゃなかったら夫婦などやっていられなかったよ。結婚した当初は戦後のまだ厳しい時代だったし、お前のおばあさんと支え合わなければ生きていくのは大変だった。その後も大変なことはたくさんあったが、お前のおばあさんとだから頑張れたんだよ」
「……そっか」
 その答えに満足したのか、孫は小さく笑った。
「人生は長い。長い人生の中では人を好きになることも一度ではないだろう」
「うん。だから初恋の人とおばあちゃんを軽々しく同じ次元で比べちゃいけないってこと?」
「そういうことだ。お前はおじいちゃんに似て賢いな」
「でしょう?」
 ふふっと彼女と同じ笑顔で笑い、孫娘は桜を見上げた。

 あの日、彼女が消えてしまった後しばらくは、何度も自ら命を断とうとした。
 自分が彼女の想いに応えなかったから彼女は消えてしまったのでないかと思うと、夜も眠れなかった。
 だがある晩、夢を見た。
 満開の桜の下、彼女はあの日と同じ言葉を言った。
 ――貴方を心から想っている。だから、幸せになって。
 そしてまた、桜の花弁となって消えていった。
 幸せになって、と彼女は確かに言ってくれた。
 ならばせめて、その言葉を叶えよう。
 あの夢は自分の願望が見せたものだったのかもしれないが、実際に彼女はそう言ってくれた。この目の前でそう言ってくれた。
 彼女の想いに応えるということが出来なかった自分に出来ることはそれくらいしか思いつかなかった。
 幸せだと、彼女のいない世界で思うことはなかなか出来なかった。少なくとも十年以上の時がかかった。
 戦後手放してしまったあの山は開墾されて今はもうない。彼女は形ばかり家の墓に眠っている。だから彼女に言いたいことがある時は、いつも桜の木の下へ行く。
 毎年、満開の桜の下に彼女に報告に行く。

 ――僕は貴女と会えて、今もとても幸せです。
                             了
作品名:桜の下の秘か 作家名:初瀬 泉