桜の下の秘か
「臆病者よ。貴方は何だかんだ言って、お祖父様に守られて大事に育てられた苦労知らずで世間知らずの箱入り息子だもの。此処を出ていきたいなんていうのも本当はただの願望でしょう? 叶えるつもりなんてない夢でしょう?」
彼女は今までにない厳しい表情と声音で言い募る。
それでもまだ、彼女は美しい。
散りゆく桜を背に、この世のものではないかのように美しい。
「いつまで貴方は作られた箱の中で夢を見ているの? いつまで夢想に生きるの?」
言いたい放題言われても、僕は反論ひとつ出来ない。
彼女の言葉は全て真実だったし、何より声を荒げる彼女の表情が酷く哀しげで、その姿が今にも崩れてしまいそうに儚げで。
桜色の袖が揺れる。
桜の花弁と共に風に揺られる。
日が傾き始めた空もまた、桜色。
「……何故怒らないの?」
彼女の両目からは止め処なく涙が溢れ出る。
「貴女に、見惚れていたら怒りも削げたから」
「本当にそう思っている?」
「本当に。貴女に誓う」
彼女は白い両手に顔を埋めた。
「貴方が好き」
涙に掠れた声がそう告げてくる。
「とてもとても好き。臆病者で夢想家で、寂しがり屋な貴方がとても好き」
散ってしまう。
桜も、彼女も、散ってしまう。
「ずっとずっと貴方を想っていた」
桜に呑まれ、そのまま消えてしまう。
「貴方と生きたいと思った。それがこの世界の誰にも望まれないことでも」
その白い指先に、そっと手を伸ばした。
触れた指先は熱い。
「僕も貴女が好きです。貴女の笑顔に、僕は随分と救われた」
そして彼女の細い体を抱き締める。
「貴女を攫って行ってしまえる甲斐性があれば、僕はまだ貴女と共に生きたいと言えたのに」
だが僕にその資格はない。彼女を想いながら、その彼女の想いに応えることの出来ない僕では。
後一歩を踏み出せそうで踏み出せない自分への苛立ちと自己嫌悪で、心底自分という人間が嫌になる。
「……その甲斐性なしの貴方を、私は好きになったのよ」
彼女は涙に濡れた顔で微かに笑い、僕を見上げた。
「でも甲斐性なしでも臆病者でも、必死に生きる貴方が好き」
優しい声がそう囁き、赤い唇が僕の唇にほんの少し、触れるか触れないかという程度に掠めた。
そっと顔を離した彼女はどこまでも無垢で透明な笑みを浮かべていた。
「貴方を心から想っている。だから、幸せになって」
その瞬間、強い風が吹いた。
木に咲いた桜の花びらが、地面に落ちた花弁が一斉に舞い上がったのを見た。そしてその笑顔が、長い髪が、桜色の振袖が桜の花弁に隠されてしまうのも。
反射的に彼女の手を掴もうとしたが目を開けていられなくなり、一瞬目を閉じた。
そしてすぐに目を開くと、まだ小さな風に桜は舞っていた。
「桜が散る……」
そう声に出した時、辺りに残ったのは散りゆく桜と僕だけだった。
初めからそうであったかのように、辺りには僕以外誰もいない。
それこそ幻想だったはずだ。
彼女を隠した桜の花びらは、次第に彼女との境い目を失くし、彼女自身桜になったように見えてしまったなんて。
幻想以外の何物でもない。
そのはずだ。
僕は声の限りに彼女を呼び、山中を探し回った。
だがどんなに探しても桜の花弁以外、見つかることはなかった。