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Reborn

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 友人と美術館に行くことを約束した。市の名を冠したこの辺では一番大きな駅から、片道1時間のところにある、県内最大の都市にある美術館だ。大下藤次郎の水彩画の展覧会だった。ポスターに載っていた絵に惹かれた。上半部八割くらいは空で、膨大で繊細な雲が、ピンクとオレンジの混ざった色で淡く色づけられている。下の方に小さく、田んぼのあぜ道を歩いてくる少女と少年がいる。二人はおそらく姉弟で、姉は日傘を差している。美術展のポスターの絵は、すべてが始まる想像の出発点だ。それをもとに、ほかの作品がどんなものかもうっすらと想像できる。想像すると同時に期待もする。この作品よりもっと面白い作品があるのではないか。期待というよりこれはもはや確信だった。
 水彩画というものは、現実の鋭さを和らげるものだと私は思っている。輪郭の鋭さ、色彩の鋭さ、存在の鋭さ。淡い色彩、あいまいな輪郭によって。だが、水彩画という和らげられた現実を前にすると、本当の現実の鋭さが、水彩画との対比によって一層際立つようにも思えてくる。現実が淡くなったり鋭くなったりする、その往復運動に私は惹かれたのかもしれない。
 厚めのガラスでできた重い扉を押し開けて駅ビルに入ると、右奥にキオスクがあり、正面の奥に改札口、左手に無人券売機が見える。無人券売機の手前の自動ドアから左に入ると有人券売所がある。改札口の上には電光掲示板で、電車名と路線の番号、行き先、発車時刻が表示されている。入口から改札口の間には、小さな平屋一軒分くらいの広がりがある。県庁所在都市でもあり、旅客がスムーズに乗降できるようにスペースをとったのだろう。キオスクの左側の壁に、ただ時を分かりやすく知らせるだけの事務的なアナログ時計があり、その時計で私は時間を確認した。9時22分。発車の時間は9時45分。まだ少し時間がある。友人も見当たらない。
 構内に人はまばらだ。キオスクの脇の時計の下で、誰かを待っているらしく、じっと携帯を眺めては閉じ、しばらく近くを行ったり来たりしながら、また携帯を開いて何かを眺めているスーツ姿の50歳くらいの男性。構内を切符売り場まで斜めに行き過ぎる、お互い黒でクールな流行風の服をまとい、男の方はワックスでしっかり脱色した髪を整え、女の方は同じく脱色した髪にパーマをかけて毛先がはねている、若いカップル。手前の方にあるベンチに腰をかけて、何か遠い過去でも思い出しているような虚ろな目をした老女。
 私は有人券売所よりもさらに左側つまり南側にある書店で本を冷やかそうとした。頭が妙に冴えていて、回転をやめそうになかった。勉強をしている日は、常に頭の回転とかみ合ってくる重み、つまり勉強の内容があって、その重さを一緒に回すから頭の回転は適度に保たれる。だが、勉強をしていない日は、頭の回転にかみ合ってくるものがない。だから私の頭脳は高速に空転する。
 私は、先ほどの老女の人生を想像して、適度に頭の回転にかませるものを与えた。生まれはどうしよう。都会の古アパート。父が教員をやっていて、母は良妻賢母。職を失った叔父さんがある時期居候をしていて、その叔父さんとのやりとりが、10歳くらいの彼女に大きな影響を与える。叔父さんの言葉は彼女の記憶に妙に残っていて、その言葉は彼女がその後の人生で一つずつ実感していくものだった。進学校を上の下くらいの成績で卒業し、旧帝大へ進学。在学中知り合った男性と卒業後すぐに結婚。主婦として家事をこなしながら、3児を育て、趣味として活け花をやる。夫が一度だけ浮気をして、そのときの苦しみと関係の修復。あとは夫が順調に会社で出世していき、それを支える。子供が自立して暇になると同時に活け花の方でも有名になり、活け花の先生をするようになる。そんな頃叔父が死ぬ。叔父の遺品から、彼女に宛てられたたくさんの手紙が見つかる。職を失って人生に深く埋没していたころ、叔父は幼い彼女に宛てて、自らの心境をつづった手紙をたくさん書くことにより自分の心を整理していたのだ・・・。
「おっ。」
ふと気付くと友人だった。
「おお、おはよう。」
「行こうか。」
私は本屋に行きたくもあったが、そもそも暇つぶしのためにこしらえた偽物の欲求だから、つぶすのも簡単だった。
「うん。」

 電車の席は満員に近かったが、向かい合っているボックスは一つ空いていた。四人座れる席だが、私たちは斜に座って二人とも脚を伸ばした。近くの木々や山肌は高速で去って行く。遠くには、工場の煙がゆっくりと形を変えているのが煙突と一緒に少しずつ後ろへ退いていったりする。私たちから距離が離れていれば離れているだけ、それに反比例して、その田畑なり建物なりは視界から消えるのが遅くなる。私たちからの距離と私たちから遠ざかる速度が反比例しているのだ。
 私はその前日、Syrup16gの「吐く血」という曲を聴いていて、ふと、「自分には何もない」という確信に襲われた。当時私は、無職で、寄る辺なく、何の資格も社会的名誉もなく、かつ大学院の友人と多数別れてしまった後だった。失恋や絶望を経験したこともあり、自分の価値を見失っていた。齢27。若さゆえに許されていた根拠のない希望を失い始める年齢だ。希望と可能性は楯の両面のようなものだ。可能性の数だけ希望は満ちて行く。若いうちは自分は何にでもなれると漠然と信じている。希望は海や空のように無窮だった。だが、私にはもはや法律しかない。可能性が狭まり、希望が浅くなる。同時に、可能性が具体化し、希望は濃くなる。私は、法律の研究者として研究室で論文を読んでいる未来の自分、法曹として法廷で当事者尋問している未来の自分、そういうものを具体的に鮮明に思い浮かべることができた。希望はもはや満ちた海のように私を泳がせてはくれず、浅い池のように足元を浸すだけだ。だが、それゆえに、私はもはや希望に翻弄されることなく、自由に歩くことができる。
 当時私は、Syrup16gは私の青春のすべてを歌ってくれていると感じていた。五十嵐隆の詞をバイブルのように心に刺していた。
「シロップの曲で「吐く血」っていうのがあるんだけどね。」
「うん。」
「摂食障害かなんかの病気で、食べ物を食べては吐くというのを繰り返す女の人の話なんだ。その曲にこんな部分がある。「私には何にもないから そう言って笑った そう言って笑った」。この歌詞の部分のメロディーが、何か重大な真実でも解き明かすって感じの低くて重い峻厳さに満ちてるんだ。」
「そう。」
「自分には何もない、そんな絶望は俺は今まで経験したことがない、俺はずっとそう思っていた。自分よりもずっと絶望してる人がいるんだな、ぐらいに。でもね、昨日聴いたら、ふと、「あ、俺にも何にもないや」って思っちゃった。なんか難しいパズルが思いもかけないひらめきで解けたときみたいにね、すべてが整合していく感じがした。」
「そうなの? 俺は自分に何かがあるとかないとか考えたことなかった。」
「何もない。俺には魅力も価値も、夢も希望も、過去や未来、現在さえも。俺は空っぽなんだ。」
「それ重症じゃない?」
「だから、沙織が何で俺のこと好きだったのかよく分からないんだ。」
沙織とは私の大学院時代の恋人の名だ。
作品名:Reborn 作家名:Beamte