灰色蝶にウロボロス
遭遇と石
それからいつものように何となく一緒に下校することになった。駅までの道は終授業終了から随分時間が経っている上に、部活はまだ終わっていないという半端な時間のせいか他に人気がない。車が通るには幅が狭すぎるため、私達は堂々と道の真ん中を歩いていた。
すると歩きながら携帯をいじっていた限野が深く溜息を吐いた。
「この携帯、けっこう使い勝手悪いんだよな。変えるかな」
「最新機種なのに!?」
限野の最新スマートフォンは確か先月かそれくらいに発売したばかりの代物だ。機能が充実しているだけに値段も特に張る機種。
「ああ、そう言えば限野はおぼっちゃまなんだっけ」
「ん? おぼっちゃま?」
限野が不思議そうに聞き返してくる。自覚ないのか。
「学校で限野は政治家一族の御子息ってけっこう有名になっている。まぁ新入生総代で目立っていたしね。先生たちも随分噂していたみたいだし」
「政治家一族ねぇ。うちは末端の末端なんだけどな。縁があるって言えばあるけど、ないって言われたらそれまでって感じの」
「そうなの? 何か元首相の孫とかって騒いでいる女子たちがいたけど」
学年主席で名門の家の息子なんて言われたら、そりゃあ女子も噂したりするわけで。特別華がある容姿というわけではないけれど、あくのない涼しげな顔立ちだと女受けは悪くないのだ。私のクラスでも時折限野の話をしている女子たちがいる。
すると、いつも笑みを貼り付けていてその涼しげな容姿が霞んでいた限野が呆れ顔で顔の前で手を振った。
「あ、それ誤報。そんな大層なもんじゃねーよ。あえて関係を暴露するなら、その元総理の腹違いの妹の外孫がうちの母親。だから実際はほとんど縁なんてあってないようなもんだぜ?」
「何か噂とだいぶ違うじゃない。それでも元総理と血縁がある家なんてそうそうないけど」
「どこで尾ひれ背ひれついたんだろうな。ま、勝手に人の噂してるだけの連中なんてどうでもいいけど」
「まぁね」
本人のいないところできゃいきゃい噂して喜んでいる相手にわざわざ真実を教えるような必要はないだろう。何だかんだで本人たちもその信憑性の低い噂を共有することによって楽しんでいるのだから。
「ま、今回は政治に関わることも関わらないことも可能な程度の家に生まれるつもりでいたから成功だな」
「成功って……望んでそういう家に生まれたとか言うわけ?」
「当たり前だろ」
限野は何を今さら、という顔をした。
「そういう家に生まれるように、前回色々がんばったんだからな」
彼の言う『前回』と言うのは前世のことで、つまり前世で来世はこういう家に生まれたいって望んでそして実際、今生の限野冬季は望んだとおりの家に生まれたわけで……。
そんなこと出来るわけない、と言ってやりたくなったけど言えなかった。
それが冗談でも嘘でもないって、私はわかっているから。限野はそんなことすら可能にする人間だって私は知っている。そして前回もそういう人間だったと、考えるよりも前に理解している。
「……何て言うかこれだけ色々あると、もう何が起きても驚かない気がする」
「そりゃいい傾向だ」
などと笑う限野をスクールバッグで叩きつけて先を歩き出そうとした時、視界の隅で何か黒いものが動いた。猫かと思ってまた歩き出そうとしてようやく気付く。
黒いそれは猫じゃない。耳も目も鼻もない、ただの黒だ。それはアスファルトの地面から這うように私のほうへと移動してくる。
「ちょ、何か変なのがいる」
反射的に限野のほうへと走り戻った。
「ああ、影だな」
無駄に落ち着きはらった様子で限野が答える。
「影って」
恐る恐るもう一度振り返ると、確かにアスファルトに張り付くように存在する黒いものは影だ。だけど影はあんなにまっすぐ陽光とは逆方向に動いてこない。何より、地面から手足のように伸びてきたりしない。
しかもアスファルトを通行中だった蟻の行列の上を通過したかと思えば、まるでそのまま飲み込まれたかのように蟻の行列は消えてしまっていた。
おかしい。物理的にありえない。そもそも動く影なんてもの自体、ありえないわけだけど。一体どんな現象で蟻が影に消えるって言うんだろう。もう何が起きても驚かないとか思ってわずか数秒で私はその意見を撤回せざるをえなくなった。
「何なの、これ?」
「動いてるな」
めずらしい生き物を観察するように限野はその恐らく影と思われるものを見ている。
「ねぇ、あの影、こっちに寄ってきてない?」
ゆっくりとだけど確実に私のほうへと寄ってきている。試しにちょっと右のほうに移動してみると、まっすぐ這ってきていた影は角度を変えてやはり私のほうへと寄ってくる。
「寄ってきてるな、一宮のほうに」
こちらの焦りなど何のその。さわやかな笑顔で答える限野。
顔面に何か堅いものでもぶつかって鼻血を吹けばいい。
「やだ、こっち来た! 限野!」
「はーあーいー」
嫌味な程に呑気な返事をしてくれる。
なぜこいつはこんな非現実的な目の前で起こってこうも平然としていられるんだろう。そりゃあ前世の縁とか、来世に生まれるならどんな家だとか決めて実行できるような非現実的な人間とは言え……。
「って、これ、まさかあんたのせいじゃ……さっき言っていた餌を撒いたとかってやつじゃないよね!?」
「まぁ餌を撒いたから向こうから来てくれたんだろうな。まさかこんなに早く来てくれるとは」
やはりこいつのせいか。
「ねぇ。まさかこの影に接触したらさっきの蟻の行列みたいに消えちゃうとか……」
「あるかもな」
その簡潔な返答に背筋が凍りついた。
「わ、私、どうしたらいい!? 限野は知っているんでしょ? だからそんなに落ち着いてられるんでしょ!?」
「まぁまぁ、落ち着けって。とりあえず自分で何とかできそうにないのか?」
「こんな理解不能の事態に陥った時の対処法なんて知らない!」
そうこうしているうちにも影はこちらへ向かってきて、伸ばされた部分が今にも触れそうな距離にやってきた。
「限野、教えて! 私がこの影をどうにかできる方法!」
必死に声を上げると、ようやく限野はこちらへとやってきた。
「んー本当にほとんど覚えてないんだな。自分に危険が迫れば都合よくちょっとくらい思いだすかとも思ったんだけど。でも俺任せにするだけでなく、自分も何かしようとする姿勢はさすが一宮」
限野はまるで気のない褒め言葉を吐いてから肩にかけていたスクールバッグの中からペットボトルを取り出した。中にはまだ半分くらい緑茶が残っている。
「ま、それもまた一興。自分じゃあとりあえず俺が見本を見せてやろう。こういうのはだ、こうすればいいんだよ」
ほら、と言ってペットボトルの蓋を上げた。そしてそのペットボトル逆さまにした。
すると当然ペットボトルの中身、半分ほど残っていた緑茶は重力に従って地面へと落ちる。勢いよくアスファルトの地面の上、この奇妙な影の上へと。
お茶を影に落としてどうなるって言うのか。