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灰色蝶にウロボロス

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とりあえずメールを開いてみると、『放課後、屋上』とだけ書かれていた。シンプルにもほどがある。電報か。
 つまり放課後屋上に来いという意味なのだろうが、人の予定も聞かないで一体何様なのか。帰宅部だから部活もないし特に用事も入っていないけれど。まぁあいつはそういう人間なのだから何を言っても無駄だろう。『わかった』と絵文字も顔文字も句読点すら入れずに返信しておいた。これじゃあ私も電報だと思いながら、授業の準備を始めた。

 本日最後の授業終了から三十分後、私はようやく屋上に続く非常階段を昇っていた。球技大会の出場競技決めが予想外に長引いてしまい、よそのクラスの生徒はとっくに部活や塾に行くなり帰宅しているような時間になってようやく解放されたのだ。一応限野には遅れるとメールしておこうと思ったのだけれど、クラス全体が殺気立っている中で携帯を開く勇気はなかった。
 今まで特に時間や場所を決めた待ち合わせはしていなかったので、限野が他人の遅刻をどう思うタイプなのかはわからないが、普通の神経なら無連絡で三十分の遅刻は怒るだろう。私だったら絶対に十五分も待たされた日には帰ってしまう。限野はどうだろう。
 まぁ帰っていてもいなくても、こちらの予定も聞かずに一方的に待ち合わせ場所と時間を指定されたという事実を差し引いても謝るべきであることは確かだ。
 そして屋上に続く重いドアを開いた。少し力を入れてドアを押すと風が吹き込んできた。視界を上げれば一面に澄み渡った青空が広がっている。春らしい心地よい風も吹いているし、意外とこの屋上はいい場所かもしれないと思いながら視界を下へとずらす。
 そこにはコンクリートの地面と金網のフェンス、それだけ。ぐるりと百八十度辺りを見回しても同じ。
 屋上には私以外誰もいない。
 さすがに帰ってしまったかと思っていると、背後で再びドアが開く音がした。
「お、一宮のほうが早かったか。入れ違いにならなくてよかった」
 そんなことを言いながら屋上へとやってきたのは私が待ち合わせしていた相手、限野だ。
「……え、何? 私のほうが早かったわけ? え? 私授業が終わって三十分も経ってから来たんだけど?」
「あ、そうなんだ? 俺は携帯いじってたらいつの間にか時間が経ってた」
 何の悪気もなく言う限野の顔を張り倒してやりたい。
「あんた、もし私が授業が終わってすぐここに来てたらどうしたの?」
「そうしたら一宮が待っててくれるだろ?」
「十五分待って来なければ帰るわ」
「それならせめて先にメールくらい入れてくれよ」
「電話もメールも好きじゃない」
「おいおい。わがままな奴だなぁ」
 子供を相手にするように言う限野にこめかみが引き攣る。
「限野だけにはわがままとか言われたくない」
「マジで? 奇遇だ、俺も一宮にだけはわがままとか言われたくない」
 ホント奇遇だなぁなどとほざきながら限野は笑っている。とても楽しそうに笑っている。腹が立つほど楽しそうで、怒っているのがバカバカしいほど笑顔だったので、何だかこちらの怒りもしぼんでいった。諦めと言うか、呆れと言うか。
「あーもういい。それで要件は何? 意味もなく人のこと呼び出したんでもないでしょ?」
 仕切り直すように言った私に限野は意地悪く笑った。
「何だよ、一宮は全ての行動に意味を持たせないと気が済まないタイプか?」
「別に何の意味もない行動好きよ? 例外は結果として私に害がなければ。特にあんたの無意味な行動によって私が不快な思いをしなくて済むならばだけど」
 嫌味っぽく言ってやったつもりだったのに、なぜか限野はその答えを聞いて爆笑した。心底おかしそうに声を上げて笑いやがった。
 気付いてはいたけれど、よく笑う男だ。笑いを納めることもなく限野は言った。
「うんうん。そりゃそうだ。俺も一宮の無意味な行動で実害が及んだら一生呪い倒したくなるもんな」
「地味に陰険だね、限野は。健全な高校生が呪うとか言わないでよ」
「いや、別に俺は健全な高校生目指してないから」
 そんな笑顔できっぱり断言するようなことでもないだろうに。親御さんが聞いたら泣くぞ。
 限野は笑うだけ笑ってフェンスに背中を預けてもたれかかった。
「ま、俺らが健全なんてなれるわけねーじゃん」
「俺らって何? まさかそれ、私も含まれいてる?」
 反射的にそう答えたけれど、本当はわかっている。
 限野の言うとおり私は健全な高校生になんて、健全な人間になんてなれやしないって。いつの頃からか漠然と何となく、私は普通に生きて普通の人間になることなんてできないってどこかで確信していた。今でこそ普通らしく生きているけれど、いつかどこかで普通から大きく逸脱してしまうだろうと、そんな予感が常にあった。
 別に日常生活に問題があったわけじゃない。家庭環境が悪いわけじゃない。子供の頃から勉強も遊びも人間関係もそこそこうまくこなしてきたと思う。少し要領がいい程度の普通の子供と周囲にも認識されていた。何不自由なく育て、愛してくれる家族だっている。
 恵まれていると誰が見たって自分自身でだって思うのに、私は健全な人間になんてなれない。自分が異常なのだと確信していた。そして異常な自分を驚くほどすんなりと受け入れていた。
 そして限野も。
 目の前で笑うこの男も自分と同じ異常だ。どこがどうと言うのでなく、そういう風に生まれついた人間だ。
 これもまた前世からの因縁とかいうやつなのか。
「いいけどさー別に」
 無駄な思考を打ちきるようにわざと大きな声を出す。
 限野はそんな私の行動を見てやはり笑っている。観察するように、見守るように、喜ぶように、呆れるように。
「それで結局要件って何? 私、お腹すいたから早く帰りたいんだけどさ」
「ん。あー大したことじゃねーけど」
 大したことない用事で貴重な放課後を搾取するな。
「一宮が何しろほとんど何も覚えてないから俺もどうしよっかなーと思って」
「私が覚えてないことってそんなに重要?」
「重要って程でもないな。どっちかっつーと瑣末」
「おいこら」
 人を捕まえて瑣末とは何だ。
「覚えてようがいまいが、まぁそんなことはどっちでもいいんだよな。俺は今後の経過を見たいだけだし。一宮が思い出すか、思い出さないか。それは俺の中では割かし重要度が高いけどな」
「人を実験動物みたいに言わないでくれる?」
「まぁまぁ。とりあえずそれでだ。まずは俺なりにアクションを起こそうと思って」
「ほう。アクションねぇ」
「うん。で、餌を撒いてみることにしたんだ」
 にこーっと。まったく邪気の感じられない笑顔で限野は言った。
「餌?」
「そうそう。これからいっぱい来るぜぇ」
 くつくつと笑い、限野は空を見上げる。
「どの程度喰いつくか、楽しみだよな」
「……それは私に害が及ぶ話じゃないよね?」
 もう既に嫌な予感しかしないが。
 案の定、限野は満面の笑みを浮かべた。
「害が及ぶ前に思い出すか思い出さないか、賭けるか?」
「ちょっと、害って何!? そんな面倒くさいこと嫌!」
「そこで面倒くさいって返せるのが一宮だよな。さっすがー」
作品名:灰色蝶にウロボロス 作家名:初瀬 泉