天井の目
「ところで、今日此処に来たのは、私に何か用事が有っての事か?」
視線は横に。
「ぢゃあ君、私はもう眠いんだ。特に用事が無いなら、もう灯りを消して寝たいんだが、良いかな?」
縦に動いたので、今度こそ、私は灯りに手を伸ばした。
視線も少しは気になるが、何となく慣れてきた。此れなら眠れるだろう。
出来れば目でも瞑って貰えると、一番有り難いんだが。
そこまで考えて、伸ばしていた手がぴたりと止まった。ある事に気付いた為だ。
「…なあ、君。
先刻から一度も瞬きをしていない様だが、目が痛くならないのか?」
そう。天井の目は、最初の最初から、一度も瞬きをしていなかったのだ。
目線が横に動いたので、痛くは無いらしい。
人間の目と一見似ているが、恐らく構造は全く異なるのだろう。
そもそも、彼の瞼に当たる部分は、薄く柔らかな皮膚では無く、硬い木である。瞬きする様に動かせという方が無理であろう。いや、寧ろ動かされても困る。其れで天井に亀裂でも入ったら、修理代は誰に請求すれば良いのだ。
「しかし、ずっと開きっぱなしというのも、余り目の健康に良く無さそうだぞ」
其れに例え埃や虫が入ったとしても、涙を流すことも、手で擦ることも出来無い。
私は何だか、其の目が可哀想に思えてきた。
「せめて天井でなく床の目なら、私が目薬でも注して遣るのだが。気の毒に」
然う言った直後だった。
何の前触れも無く、天井の目は掻き消えた。
目が有った場所は、何の痕跡も無く、何処から如何見ても普通の板張りの天井でしかない。私はきょとんと其処ばかりを凝視していた。
はて、今迄のは眠気の余り見た夢であったかと首を傾げた時だ。直ぐ横から、誰かの足音が聞こえた。
はっとして横を見たが、其処には誰も居ない。次いで、ぱちぱちという音。
若しやと思い上体を起こすと、何と直ぐ側の畳に、先程の目が居るではないか。
「目薬の為に移動したのか?」
黒目が縦に動く。其の目が期待に満ちている様に見えるのは、恐らく私の気の所為ではあるまい。
何と現金な奴だろう。少し呆れて、一つ溜め息を吐いた。
然し、矢張り幼子か、或いは子犬の様で愛らしくもある。
私は薬の入っている棚を開けた。
「ところで、目薬を注した事はあるのか?」
案の定、視線は縦に動いた。
其れは然うだろう。口も手も無いのでは、薬局で目薬を買う事も、自分で目薬を注す事も出来まい。
「ぢゃあ、少し染みるけれど、余り驚いてはいけないよ」
目薬は殆ど使われておらず、たっぷりと点眼液が入っている。
私は蓋を開け、点眼口も捻り取ると、くるりと手首を返し、中身を全て目に向かってぶち撒けた。
其の位しなければ、彼の目には量が少な過ぎるだろうと、然う考えたからだった。
瞬間、部屋が大きく揺れた。
ばちんという、何かが破裂したような騒音。
「………おや?」
震度三程度の揺れが収まった頃、気付くと、目はすっかり消えていた。
床にも、天井にも、壁にも、部屋の何処にも、少なくとも見える限りの場所に、彼の目は居なかった。
部屋は、最初から何も無かったかの様に、しんと静まり返っている。
唯、私の手に在るの空の目薬だけが、此処で何かが起こった、其の名残であった。
「だから、余り驚いてはいけないと、然う言ったのに」
然し、生まれて初めての目薬に、一等強い清涼型は刺激が強すぎたかもしれない。
次は染みない目薬を用意しておいてやろう。
柔らかな布団の中で、今度こそ灯りを消しながら、私はそんな事を考えていた。
詰まり、私が毎月、二度か三度も目薬を買っているのは、然ういう理由なのだ。
おしまい