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なつきすい
なつきすい
novelistID. 23066
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いやがらせマイタウン

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名枠ニュータウンの朝は、無駄に早い。
 夜が明けるか開けないかのうちから、大音量で中年女性の絶叫が響き渡るからだ。勿論、オペラ歌手でもなんでもない女一人の生声がそこまで響くわけもなく、彼女は防災用の無駄に性能のよい拡声器を使っているのである。時々ボタンを押し間違えるのかわざとなのか、うぃんうぃんとサイレンが鳴ることもある。サイレンのほうが、音自体に意味がないだけまだましだ。
 その中年女性、島田ががなり立てる内容は毎日変化してしてはいるが、基本的にはいつも同じだ。三軒隣の三木家に対しての苦情だ。一部は事実の通りだったりするし、一部は事実無根だったりするのだが、最早内容を聞いている人はいない。周囲はただ、島田が三木に対して文句を言っている、という部分だけを把握している。
 島田は、理由もなく三木の家に向かって毎朝毎朝、日によっては日中も叫んでいるわけではない。三木家の夫人のために、島田の息子は妻と娘に出て行かれてしまったのだ。息子がフィリピンパブの女に入れ込んでいることを、三木夫人が町内中に触れ回ったのだ。尾ひれ背びれをたっぷりに生やして。たかが飲み屋の女への浮気の一件や二件ぐらいだったら、元々は許してやるつもりだったようなのだが、これだけ触れ回られてしまってはとてもとても恥ずかしくてやってられないと、彼女は娘を連れて出て行ってしまった。家族を失った息子は、しかし離婚の原因となったフィリピンパブの女は金を毟り取るだけ毟り取ると本国に帰ってしまったため、ひとりで失意の日々を送っている。
 三木夫人のために崩壊した家庭や、引き裂かれたカップルは、三木家がここに越してきてからの数年だけでも、両手の指では足りないだけ存在する。これまでの人生で彼女が壊した家庭は、恐らく両足の指を入れても足りないことだろう。
 嫁のことは諦めがついても、諦めきれないのは孫のことである。本人の浮気がそもそもの原因であるとはいえ、元妻への未練を抱えて悲嘆に暮れる息子の姿も哀れだった。三木がまるでそれが使命でもあるかのように、近所中に言いふらして回らなければ、こんなことにはならなかったのに。
 あれから数ヶ月。あれ以来電話でしか連絡が取れていない孫を思いつつ、島田は拡声器に向かって罵詈雑言を叫び続ける。
 
 
 騒音を避けて朝早くに愛犬の散歩に出た三木夫人は、草むらでべちょりと嫌な感触を足に受けた。靴越しにもわかる。犬の糞だ。慌てて足を草むらから引き上げると、靴にべっとりとついていて、三木夫人は小さく引きつった声を上げた。こんなこともあろうかと、ゴム製の安い長靴を履いていたから、水洗いすれば落ちる。それでも、不快なことに変わりない。一刻も早く洗い流したくて、自分が踏んづけたものと、自分の愛犬の糞をまとめて拾うと、足早に自宅へと引き返していった。
 糞の主はわかっている。同じ町内の柳の家の犬たちだ。柳家では大型犬ばかり三頭飼っており、わりとしつけが行き届いているのだが、いかんせん飼い主にしつけが入っていないと近所ではささやかれている。犬たちは温厚かつ飼い主に忠実であり、出入り自由の庭で放し飼いになっていても、ノーリードで散歩をしていても、いなくなったり人や犬を襲うようなことは決してない。が、いくら賢いとはいえ、彼らは犬だ。食欲と排泄を我慢したり制御したりすることはできない。散歩コースには、人目で大型犬のものとわかる大量の糞がところどころに落ちており、迂闊に歩くと時に地雷を踏むこととなる。
 ふと見ると、今日の糞にはトウモロコシの粒が混じっていた。そういえば、昨日向かいのお宅の家庭菜園のトウモロコシが誰かに食い荒らされたと言っていたのを、三木夫人は思い出す。
 帰ったら犯人を教えてあげなくちゃ。そう思った途端急に足取りが軽くなり、三木夫人は家路を急いだ。
 
 
 三木家より一足先に散歩を終えた柳は、家の前にパトカーが止まっているのを見つけ、盛大にため息をついた。またか、と。警官も馴染みの人物であり、もう事情をあらかた知っているので、困ったような笑顔を浮かべている。
 いつものことだった。特に柳家の誰かに逮捕状が出たとか、家宅捜索に入られているわけではない。
 隣の大久保は、些細なことで警察を呼ぶのが趣味なのだ。犬の散歩の仕方が悪いに始まって、やれ車の停め方が悪いの、植木鉢が歩道にはみ出てるの、ゴミの出す日を間違えたの、といった点を目敏く見つけては、通報する。今回は何だろうか。ほとんど実害がないとはいえ、面倒くさいのは確かなので、特にいちゃもんをつけられやすい車の停め方にはそれなりに気をつけているつもりだ。
 今回の件は「犬がうちの小さな娘を睨んで泣かせた。これは脅迫罪だ」というものらしい。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、柳は唖然とした。しかも大久保の家の娘はまだ二歳ぐらいで、ほとんど外に出てこない。一体どこでそんなことになったのかと聞けば、家の窓から外を見たら、目が合ったのだという。
 警察としても一応顔を出しておかないと、県警本部にクレームの電話がかかってくるので、出動しないわけにもいかないらしい。警官は一通りの説明を終え、「犬は家の中に入れておいたほうが、お隣にいちゃもんをつける口実を与えないで済むかもしれませんよ」、と言い残して帰っていった。
 
 
 その一連の流れをカーテンの隙間から観察し、大久保は満足げにコーヒーをすすった。いつも通りの朝食を済ませ、美しい妻に見送られて出て行く。今日も清々しい朝だった。
 しかし夫の姿が見えなくなると、妻は表情を曇らせながら、郵便受けを確認した。今日も、新聞の折込広告の中に、いつもと同じ封筒。それを見つけてしまい、げんなりとした。
 毎朝入っているその手紙には、一日の彼女の行動が事細かに記されていた。写真まで入っていることもある。このことを、彼女は毎日やってくる警察は勿論、夫にも隠していた。犯人に具体的な心当たりはないが、今までの歴代、そして現在も複数いる浮気相手たちのひとりでないとは限らない。
 犯人を明らかにすることによって、それらの件が夫にばれることのほうが、彼女にとっては余程面倒だったから、誰にも相談できないでいる。盗聴器を発見したことも何度かあるのだが、隠し場所がプレゼントとかの類でなかったので、犯人へ繋がる手がかりにはならなかった。
 しかし、盗聴と手紙の投函以上のことは、今のところしてくる気配はない。実際に危害を加えられたり、盗聴した内容を誰かに暴露されるようなことさえないのであれば、隠し通そうと彼女は考えていた。
 今日は彼氏たちのうちのひとりが遊びに来る日だ。家と庭の掃除をして、ついでに集めた落ち葉と一緒に手紙も燃やしてしまおうと、彼女は考えた。
 
 
 大久保夫人の密会の音声を聞きながら、しかし小笠原はその至福の時間だというのに、盛大に気分を害されていた。
 また、マンションの上の階で怪しげな儀式が始まったようで、正体不明の異臭と人々の呻き声が飛び込んできたからだ。慌てて窓を閉めたが、建物全体をじわりじわりと揺らすような重低音は消えてはくれない。