ドラッグ・オブ・ラビット
いつまで経っても日差しは弱まらなかった。暑さのあまりに身体中の水分が汗と一緒に蒸発してしまったようで、喉が非常に渇いている。このままでは干からびてしまうので、水でも買おうかと思い、自販機を探す。
自販機で水を買うと、私はバス停留所の古ぼけた待合室の影に逃げ込む。
既に先客がいた。背広を着た男だ。この暑さというのに男は上着を脱いではおらず、ネクタイもしっかりと締められていた。それで汗一つ掻いていないので、少し不気味だった。
こういう時、大体の物語ではこういった謎の人物は登場人物を奈落の底に突き落とす。
その期待は、男のこの言葉で叶えられた。
「君、スタッフに興味ない?」
予想通りだ。予想通りでそれはそれでちょっと、と思わないでもない。
「クスリ?」
スタッフとはドラッグと大体同じ意味だ。男は私に笑いかける。
「そうそう。トロから七味まで、各種取り揃えているよ」
トロは正確には純トロ、シンナーのことだ。七味は多分、大麻とかケシ系のアルカノイド合成薬辺りだろう。七味には麻の実とケシの実が入っているから、そういう隠語が生まれたのだろう。トロまでは聞いたことはあったが、七味は初めて聞いたぞ。コレだけ聞くと寿司の話に聞こえるからたちの悪い話だ。
しかしまあ、シンナーをそのまま売りつけるというのは売人としてはどうかと思う。あれはドラッグとしては下の下だろうに。
「デザートにアイスなんていかが?」
「そんな命知らずなチャンポンはごめんこうむる」
それだけイッキに乱用したらショック死しかねない。
「それと、最近流行ってるのが妖怪のお薬」
妖怪のお薬?
「ある医療薬の研究の過程で出来上がった不完全品でね。そのままスタッフとして扱えそうだから、今流通してんの。カッパのキズ薬なんてのはいいぞ。水の中をフワフワ漂っている感じで、今の時期にぴったりだ。あとは、百々目鬼なんかオススメだ」
しかも聞いてもないことをペラペラと。
「百々目鬼?」
「それに興味があるのかい? 百々目鬼は視線恐怖症の治療薬として開発されたもんだけどね、肝心の治療には上手く作用しなかったんだが、代わりに興奮作用と高揚感を得られるから、セックスとかオナニーする時に飲むといい感じにハマれる。セックスに限って言えば、アイスに比肩するよ」
一回試してみればいいよ。そう言って、男は私の連絡先と一緒に小さなピルケースを握らせ、たった今来たバスに乗り込んだ。
……さて、どうしたものか。
私はふと、猛烈に喉が乾いていることに気付いた。水分補給の為に買った水だが、どうしてか、今はその水に口を付けたくなかった。
しばらく日付を置いて、私はその男と再会した。
いや、正確に言えば見かけた、というべきか。食事に入ったファーストフード店で、男は客と思しき青年と一緒に座っていた。
静かに聞き耳を立てる。
「――最近、誰かに見られている気がするんです」
青年は怯えるように言う。
百々目鬼の副作用の一つ。いもしない誰かの視線を感じるという妄想。更に視線恐怖症まで併発しているように見える。
「大変ですね。お薬の方は続けられていて?」
「はい。中々改善されませんね。俺、この前夢を見るって言ったじゃないですか。最近では母や父、美也子まで現われるようになりました」
どうやら医者のフリをして男に百々目鬼を売っているようだ。本当に薬剤師の類なのかも知れないが、ヤツのやっていることは売人の類で、もし薬剤師だとしても、失格だろう。
「大丈夫です。すぐ治りますよ。お薬の方、処方しておいたのでどうぞお使いください」
そう言って、男が客に薬を渡した時だった。二人を数名の男たちが囲い込む。
「すまないけど、ちょっとご同行願えますかね?」
そう言って、男の一人が懐から何かを見せる。こちらからはそれが何かは分からない。
男たちは、二人を連れてファーストフード店から出て行った。
さて、結論から言おう。私はあのクスリと連絡先を警察に投げ込んだのだ。連絡先は足の付かないを使っているのだろうし、最初はアレだけじゃあ逮捕まで難しいだろうと思ったが、どうやら日本の警察は私が思ったより優秀だったらしい。
今回私がこの場に居合わせたのは偶然だ。偶々夕食にファーストフードを選んだら、そこにヤツらがいて、そして偶々今の任意同行を目にしたわけだ。人生は面白いものだと思いながら、ふやけて不味くなりつつあるポテトを口にする。
しかしまあ、今まで色んなことに巻き込まれつつも結局は部外者であったが、今回ばかりは当事者だった。まあ、いずれにせよ結局は私の人生は何の変革も起こらずに回り続ける。
少しだけ変わったことと言えば、しばらく飲むのを避けていた水道水を、久しぶりに美味しく飲めそうだということだろうか。
作品名:ドラッグ・オブ・ラビット 作家名:最中の中