新世界
席に戻り、電話のボタンを押す。交渉が成功したことを、ヴァロワ卿に報せておきたかった。
ところが軍務省のヴァロワ卿の執務室に連絡をいれても、呼び出し音が鳴り続けるだけだった。他の部屋に行っているのだろうか。
朝のうちに条約調印のための文書は完成し、あとは皇帝の署名を貰うだけとなった。昼休憩が終わったらすぐに皇帝の執務室に行こう――そう考えていたところだった。扉が突然開いた。
ヴァロワ卿だった。ノックもせずに入室するとは珍しいことだった。
「宰相」
ヴァロワ卿は慌ただしく私の許に歩み寄る。険しい顔つきをしていた。
「何かあったのですか?」
「陛下が戦争の継続を認めた。フォン・シェリング大将とヘルダーリン卿、それに私の前でだ」
「……どういう……ことですか……?」
皇帝が戦争継続を認めた――?
「今朝、陛下から呼び出しを受けて、ヘルダーリン卿と共に謁見の間に行った。其処には既にフォン・シェリング大将が居た。彼がその場で提示した戦争継続案を、陛下が認めたんだ」
何故、そのようなことになったのか。
私には何ひとつ伝えられず――。
「陛下が認めたのは軍務省主導での戦争継続だ。宰相はこのたびの戦争に加わらないことを条件に、陛下がフォン・シェリング大将の提案を認めた。今迄ずっと謁見の間で議論していたことだ。そしてその場で強固に反戦を訴えていたら、私は一時的に長官を解任された。戦争終結まではフォン・シェリング大将が長官となり指揮を執ることとなる」
「何故……、何故、陛下はそんなことをお認めに……」
「陛下のお気持ちは私にも解らない。宰相、こうなったからにはすぐに交渉の中断を共和国に訴えて……」
「今朝、ムラト次官から連絡があって、此方の要求を飲むと回答を得られたところです。今更それを破棄することは出来ません。それに、戦争継続だけは絶対に避けなければ……」
陛下の許に行かなくては――。
早く、説得しなければ――。
「宰相。陛下に何を進言しても無駄だ。陛下は今は完全に主戦論側に立っている」
「ですが陛下は、今回の交渉を私に一任して下さると……!」
「陛下はおそらく共和国全土を手に入れるつもりだ。それが可能だと吹き込んだのがフォン・シェリング大将だ。宰相は戦争を望まないから、今回の戦争からは除外されたのだろう」
何のための宰相なのだろう。
肝心な時に除け者にされて、勝手に物事を進められて。
全ては皇帝の一存で、私は彼に操られているに過ぎないのか。
私は一体今迄、何のために尽力してきたのだろう。
「残念だが、この国では仕方の無いことだ。交渉中断の旨は私からムラト大将に伝えよう」
「陛下に謁見してきます」
「宰相。今の陛下に何を進言しても無駄だ」
「私が納得出来ません。交渉中断の連絡はまだ控えてください。オスヴァルト、先程の文書を」
オスヴァルトから文書を受け取る。ヴァロワ卿は同行を申し出た。
「いいえ。一人で行って来ます。ヴァロワ卿は軍務省で待っていてください」
皇帝の不興を買うのは解りきったことだった。私はどうしても行かなくてはならないが、ヴァロワ卿をこれ以上巻き込む訳にはいかない。
一度は脱いだ上着に袖を通す。文書を眼でさっと確認した。
「……宰相。短慮を起こしてはならないぞ」
ヴァロワ卿の忠告に苦笑で応える。それから部屋を後にする。
意外にも、こうして皇帝の執務室に向かって歩くうちに、私の心は落ち着いてきた。ヴァロワ卿から聞いた時には怒りにも似た激しい感情が犇めいていたが、今は嵐の去った後のように静かだった。
皇帝はきっと私の意見を聞き入れてはくれないだろう。ヴァロワ卿が言っていた通り、無駄だと解っている。
私は自分自身の決意を再確認するために、皇帝に会いに行く。
今回の戦争は帝国の侵略であることを確かめる。そのうえで、皇帝にそれを止める意志が無いのなら――。
その時は私は――。
「陛下に謁見したい」
皇帝の執務室の前で警備に当たっていた男に、それを告げる。彼は一礼して部屋の中に入っていく。数秒後、扉が開き、先程の男がどうぞと先を促した。
「失礼致します。陛下」
皇帝はいつも通り、机に向かっていた。その手にペンは持っておらず、一歩一歩近付く私を見据える。まるで私の到来を待っていたかのように。
「ジャン・ヴァロワからお前に話は伝わるだろうと思っていた」
「陛下。質問をお許し下さい」
皇帝の机の前に歩み出る。皇帝は頷いて、良いだろうと応えた。
「このたびの戦争は侵略戦争と私は捉えています。陛下はどのようにお考えですか?」
「侵略戦争であることは否定しない」
「では陛下はそれを御承知の上で、このたびの戦争を支持するのでしょうか。これまで帝国が侵略し、領地に組み込んできた地域はいずれも陛下への忠誠心が薄く、内乱が多発し、この帝国に不利益をもたらしています。そうした地域が手を取り合えば、この国の地盤を揺るがしかねません。その内情は陛下も御存知の筈です」
「今回の戦争は別だ。フリデリックの案が其処にある。新トルコ共和国の資源は計り知れない。たとえ大きな内乱が起きようと、それを手に入れることによって、此方の軍を強化し、内乱を沈静化させることは可能だ」
すうっと冷たいものが胸の内に広がっていく。この皇帝に何を言っても無駄なのだと、頭の中で警告される。
それでも――、今一度。
「陛下。お考え直し下さい。支配地の民達の恨みを買うことは、この帝国を崩壊に招きかねません」
「フェルディナント。好機というものがある。お前は戦争を嫌うゆえ、今回は名を外させた。私の思いが解らぬか」
「もしこの帝国を守るための戦争であるなら、このフェルディナント、一命を賭けて戦いましょう。ですが、これは一方的な侵略です」
「この国は資源が乏しい。だが、新トルコ共和国を手に入れればその心配も無くなる。フェルディナント、今回の戦争は私の厚意でお前を外してやった。お前には戦後処理を頼む。ジャン・ヴァロワにもな。今のうちにそれを考えておけ」
「陛下。今朝、新トルコ共和国から回答があり、条約締結の準備は全て整いました。陛下はそれを破棄なさるおつもりですか。破棄なさった場合、帝国は国際的な非難を浴びます。それでも……」
「下がれ、フェルディナント。お前は早々に宮殿に入り、皇太子としての責務を憶えることだ。お前にはまだその自覚が無い」
差し出そうとした文書を、皇帝は見ようともしなかった。
そればかりか、私とこれ以上話をするつもりもないようで、私から眼を放す。
「……解りました。失礼致しました」
一礼して、扉の方に身体を向ける。皇帝専属の秘書官が目礼して、扉を開けた。
「ああ、フェルディナント。お前の部屋の準備が完全に整ったと、昨日、侍従長が言っておった。今日か明日にでも不満は無いか見ておくように」
「……はい」
再び皇帝に向き直り、そう応えて一礼する。
だが、もう私が此処に来ることは無いだろう。
この宮殿にも――。
「閣下! 先程、軍務省が共和国に向けて交渉中断を宣言しました。此方には交渉を中断するという一方的な通達だけで……」
「……そうか」