新世界
部屋に戻り暫くすると、パトリックがやって来る。パトリックは父親の代からこの家の管財人を務めており、ミクラス夫人の夫でもある。夫婦共に、この邸で長年にわたり働いていて、彼等にフリッツを加えれば、この邸のことで解らないことは何も無いだろう。
「今年から帝国アカデミーへの出資を増額する。これまでの一万ターラーから一万五千ターラーに。可能か?」
「それは可能ですが……、一万五千ターラーの出資となると、皇室出資分を上回ってしまうのではありませんか?」
「陛下には許可を頂いてきた」
「それならば……、そのように準備します」
「事前の相談も無く済まない。それからこの家のことなのだが、今朝、ゲオルグに電話をして話をつけておいた」
私がロートリンゲン家の籍を離れることから、皇帝は親族の誰かを後継に据えろと命じたが、父方の親族は既に絶えている。母の兄であるオスカー・コルネリウスの息子、私から見て従兄にあたるゲオルグ・コルネリウスだけが唯一の親族だった。
ゲオルグは私より二十歳年上で、帝国北部の都市ハンブルクにある美術館の館長を務めている。ゲオルグの父で、私の叔父にあたるオスカー・コルネリウスも、一時期、その美術館の館長を務めていた。父と母の馴れ初めもこの美術館だったと、母から聞いたことがある。
ゲオルグは私の幼い頃は帝都にある帝国アカデミーに通っていた時期もあって、その頃はこの家を訪れることもあった。しかしハンブルクに戻ってしまってからは、父と母の葬儀以来、偶に電話で連絡を取り合うものの、顔を合わせることはなかった。
「ではこのロートリンゲン家はゲオルグ様がお継ぎに?」
「いや。ロイに継いでもらうことに変わりは無いのだが、私が宮殿に行ってしまったらこの家の主が不在となってしまう。そこで、ロイが戻るまでの間、ゲオルグに表向きの当主として名を貸してもらうことを頼んだ。管財に関してはパトリックに一任する。年々の投資についても従来通りということで、話をつけた。ゲオルグもハンブルクを離れるつもりはないし、名前だけならということで了承を得た」
「ロートリンゲン家の財産を計算するような人であれば、率先して当主に名乗り出るのでしょうが……。美術品をこよなく愛するゲオルグ様らしい返答ですね」
「ああ。面倒事を回してくれるなとも言われたよ。相変わらずだった。まあ、その見返りとして美術館への出資増額を求められたがな」
電話をいれた時も、新しく手に入れた美術品の話ばかり聞かされた。一時間半も通話しながら、本題について語り合ったのは十五分程度だった。美術品についてまだ語ろうとする彼を制したのは彼の妻で、彼から受話器を奪ってから私に語りかけた。ハインリヒのことを聞かれ、一連の事件のことを話すと彼女は驚いて、大変だったわね、と言った。ハインリヒが帝国に戻ってくるまでの間、何かあればすぐ此方に駆けつけてくれると言ってくれた。
『ありがとうございます。宜しく楽しみます』
『フェルディナントもこれからますます苦労が多くなることでしょう。でも何よりも身体には一番気を付けなさいね』
暖かい言葉が嬉しかった。帝都からは遠くてあまり会うことは出来ないが、夫婦共に穏和な人達だった。二人の間に子供は無いが、彼等にとっての子供は美術品と言っても良いだろう。
「承知致しました。ハンブルクへの出資額を増額しておきましょう」
「宜しく頼む。出資増額ばかりだが、運営の方は大丈夫か?」
「はい。今回の出資増額分を繰り入れても、まだ余力があります。出資金や邸の維持管理費等は配当金で賄える範囲のものですし、ハインリヒ様捜索のための資金もそこから捻出しております」
ロートリンゲン家は投資も随分行っているが、特に祖父の代に株式投資した企業が帝国屈指の大企業となり、其処からの配当が巨額で、殆ど全てがその配当のみで維持出来る。宰相としての私の給与の大部分は、今でも手つかずの状態だった。手許にあるその給与だけでも、ロートリンゲン家に仕える人間を今後五十年間ぐらいは養っていける。
「そうか……。ではこの家は安泰だな」
「フェルディナント様?」
「いや……。いざ此処を離れるとなると様々なことが気に懸かってな」
「フェルディナント様が宮殿に行ってしまわれると、この邸も寂しくなります。まさかフェルディナント様が皇太子様になられるとは誰も予想していませんでしたし……。この上ない名誉なことではありますが、私共としては寂しく、そして心配でもあります」
「……本当は私も今のままが良いのだがな……。私は愚かで、そのことに最近漸く気付いた。……ひとつの過ちが積み重なって、私自身が何も身動きの取れない状態になっている。この一年で何もかもが変わってしまった。一年前が懐かしくてならない」
「フェルディナント様……」
「この家のこと、これからも宜しく頼む」
パトリックは、はいと応えて深々と一礼する。その時、彼の妻でもあるミクラス夫人がヴァロワ卿の来訪を伝えた。
「済まないな。時間を裂いてもらって」
ヴァロワ卿は一旦宿舎に戻って此方に来たのだろう。私服姿だった。応接室で向かい合って座ると、ヴァロワ卿は少し安心したと切り出した。
「ヴァロワ卿?」
「邸のなかではいつも通りなのだと思ってな。……エスファハーンからずっと様子がおかしかったから気になっていた」
「……ご心配をおかけして申し訳ありません」
「今回の戦争も戦死者の数を思えば、皇帝命令とはいえ割り切れない部分もあるだろうが、私が思うに理由はそれだけではないのだろう」
ヴァロワ卿は私を凝視する。ヴァロワ卿との付き合いは私が外交官となった頃からで、十年以上になるから、私のことなど手に取るように解るのかもしれない。
「より端的に言うならば、エスファハーン支部で長官を捕虜にした時からか」
「……何故そうと?」
「あの時から宰相らしくなかったからな。私の知る宰相は、発言しながら次のことを既に考えているような人物だ。あの時は発言する内容すら、頭に入っていないような様子だった」
「……ヴァロワ卿には適いませんね」
先程ミクラス夫人が持って来てくれた珈琲にミルクを少し注ぐ。ミルクが渦を作り、少しずつ溶けていく。
「長官を捕虜とすることに躊躇したのか、それとも宰相は長官を見知っていたのか……。どうも私には後者に思えてならなくてな」
ヴァロワ卿は流石に洞察力が鋭い。これまで軍務省の中で、旧領主層達と対等に張り合えているのも頷ける。
「違うか? 宰相」
「……ヴァロワ卿の御指摘通りです。私は彼を知っていました」
嘘を吐く必要も無く、こうして聞かれたからには全てを語る必要があるだろう。ヴァロワ卿はやはりそうだったのか、と納得するように言った。
「では宰相は共和国の長官を初めから知っていたということか?」
「いいえ。そうではないのです。私は彼が長官だと知らなかった。レオンという彼の名しか知らなかったのです」
「……どういうことだ?」
ヴァロワ卿は眉根を寄せて問い返す。ヴァロワ卿が訝しむのも無理も無いことだった。
「もう半年前になります。私が倒れて休暇を取っていた時期のことです」
「ああ。過労で倒れて暫く休んでいたのは憶えているが……」