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新世界

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 普段は、郊外にある自宅から本部のある宮殿まで、電車で通勤する。しかし、通勤に一時間もかかることから、忙しい時には決まって、宮殿に程近い宿舎に泊まる。このところは忙しくて、先月以来一度も帰宅していなかった。そのせいか、玄関の前に立つのが何だか懐かしい。
「……意外です。ヴァロワ長官」
「何が?」
「いいえ、長官はまだ御結婚されていないので、てっきり宿舎にお住まいかと……。御自宅から通っているということにも驚きましたが、一軒家にお住まいだったとは……」
「准将に昇進した時に思い切って購入したんだ。アパートでは手狭でな。しかしまあ、此方には週に一度帰宅出来るかどうかというところだ」
 今日は自宅に帰ろう――と、本部で帰り支度をしていたところへ、オスヴァルトがやって来た。宰相からの連絡事項でもあるのだろうかと思ったら、オスヴァルトは宰相のことで少し話がしたいと言ってきた。内容が宰相のことだけに、滅多な場所では会話出来ない。其処で、家に来るように誘った。
「散らかっているが、其処のソファにでも座って待っていてくれ」
「……長官、ソファが本に占拠されていますが……」
「ああ、適当に除けてくれ」
 来客など滅多に無いから、部屋のなかはかなり散らかっていた。ソファで寛ぎながら本を読むのがいつものことだから、確かにオスヴァルトの言う通り、本がソファを占拠してしまっていた。
 さっと軍服から着替えて、グラスを二つとワインを出す。先程買ってきたチーズとハムを適当に切って皿に盛り、オスヴァルトの待つ部屋へと向かった。
「……すごい本の数ですね。確かにこれだけ所有しているとアパートでは手狭でしょう。随分古めかしい原書もちらほら見えますが……」
「趣味でね。最近は読む暇も無いが……。この家に帰ってきたのもひと月ぶりだ」
 オスヴァルトにグラスを差し出す。ありがとうございます、と若い副宰相は言った。
「で……、宰相のことで話があると言っていたが……」
「ええ。このところ閣下の御様子がおかしいのです。余裕を無くしてらっしゃるというか……。今日もフォン・シェリング大将と口論になって……」
 オスヴァルトが宰相のことで私と話したいと言った時に、大方の予想はついていた。ずっと宰相の側に居るオスヴァルトも、その異変に気付いたのだろう。宰相はエスファハーンからずっと思い詰めた様子だった。
「エスファハーンに入ってからずっとあの様子だ。今回の戦争を酷く悔やんでいる。過ぎたことだから気にするなと言っても耳を貸さない」
「エスファハーンからでしたか……」
「しかし……、どうにも解せないことがある。エスファハーンに入った当初は、確かにその時も元気は無かったが、あれほど意気消沈していなかった」
 宰相の様子が一変したのはいつだったのか、私なりに考えてきた。
 このたびの戦争を悔いているにしても、当初は戦争を早く終わらせようと意気込んでいた。それが何故かエスファハーンに侵入して――、とくにエスファハーン支部に入ってから一変した。特に――。
「……エスファハーン支部に入り、アンドリオティス大将を捕虜にしてから……といった方が良いか」
「捕虜を取ったことを悔いてらっしゃると?」
「それも……そうだが……」
「何か気にかかることでも?」
「宰相はアンドリオティス大将と面識があっただろうか?」
 考えついた結論がそれだった。突き詰めて考えると、宰相の異変はアンドリオティス大将と出会ってからだという結論に達した。しかし、エスファハーンに行く前に、宰相はアンドリオティス大将のことは名前しか知らない、と言っていた。
「いいえ。新トルコ共和国の軍部長官とは面識が無いので、一度は会ってみたいといつも仰っていましたから」
「そう……だな。私もそう言っているのを聞いた。だが、どう考えても宰相の異変は彼と出くわしてからだ」
 敵国の長官を捕虜とすることを躊躇したのかと思ったが、どうやらそれとも違う。尤も捕虜を取るということ自体、宰相は卑怯な手段だと呟いていた。だが、卑怯な手段でもその方が戦争による犠牲者が少なくて済む――そう言って、納得していた。
 宰相は一度納得したことをもう一度掘り返すような人間ではない。だから今回の異変は私から見ても奇妙なことだった。どうしたのかと問い詰めても、答えようとしない。
「閣下のお志は理解しているつもりです。閣下ならばこの国を良い方向に導いてくれるでしょう。ですが、このままではその過程において閣下を糾弾する派閥が出来かねません」
「フォン・シェリング大将が宰相室に乗り込んできたと言ったな」
「ええ。閣下は真っ向から意見を遠ざけました。いつもはたとえ反対であっても意見に耳を傾ける方が、それも聞かずに退けられて……。勿論、彼等の戦争拡大論には私も反対ですが……」
「言いたいことは解る。余裕を失っているという一言で片付けられるものではないが、宰相は何か思い詰めている。それが何かは君にも私にも解らない。……宰相とは少し時間を作って話をしてみるが、あの宰相のことだ、語ってくれるかどうか……」
「ヴァロワ長官……」
「……私としてはもう一点気にかかることがある。オスヴァルト、宰相が奇妙な言動を見せたらすぐ私に報せてくれないか?」
「え? ええ。気になることとは?」
「まあ、私の思い過ごしだろうから、話すのは控えておく」
 グラスを持ち上げて、酒を口にする。辛口の白ワインが口内で弾けながら喉元を過ぎていく。
「そうだな、明日にでも宰相と話してみよう」
「お願いします」
 オスヴァルトは安堵した様子で笑んでから、グラスを傾けた。
「新トルコ共和国から今週中に回答が来るのだろう?」
「はい。条件を見ても新トルコ共和国側に不利なものではありませんし……。明日か明後日には回答が来るのではないかと、閣下も仰っていました」
「……陛下がフォン・シェリング大将達に感化されなければ良いがな」
 オスヴァルトは驚いた眼で此方を見つめた。
 もしフォン・シェリング大将の戦争継続論を皇帝が了承したとなれば、宰相は交渉を打ち切らなければならなくなる。これ以上の戦争継続は帝国にとって不利だと宰相が説いても、皇帝が聞き入れない時は、また戦争を始めなければならない。この国はそういう国だ。
 しかし、今の状態の宰相がそれを納得するだろうか。
「今回の勝利で、陛下は閣下にますます信頼を置いていますから、閣下の意見を退けることはないでしょう」
「だと良いが……」
 嫌な予感が拭い切れない。もしその事態が生じた時、宰相の取る行動が気にかかる。



 午後八時にヴァロワ卿が邸にやって来る。それまであと一時間ある。今日は定刻に帰宅出来たため、夕食後にこうして少し時間が空いた。この間にパトリックと話をしておくか――。
「ミクラス夫人。パトリックを私の部屋に呼んでほしい」
「解りました」
 ダイニングルームから自室へと向かう。今月末に立太子の儀があり、その後は宮殿に住むことになる。そのため、この家の今後のことについて、パトリックと話をしておく必要があった。
「失礼します」
作品名:新世界 作家名:常磐