新世界
「宣戦布告からもうじき二十四時間が経つというのに、帝国はまだ一度も攻撃を仕掛けてこなければ、国境付近にその姿もまったく見られない。だが帝国の狙いは明らかだ。まずは原材料の獲得に走るだろう。国土の広大さと反比例して、資源がそれほど豊富には無いからな。それに戦争ともなれば、帝国との貿易を拒む国も出て来る。だからまず帝国は、シーラーズを目指す筈だ」
シーラーズは帝国と国境を接する町で、鉱物資源も豊富にある。帝国と接する地域のなかでは一番豊かな土地であり、数十年前にも帝国はこの地を狙い、侵略しかけたことがあった。
「帝国軍の強みは兵力の大きさにある。何しろ、我が国の六倍の兵力を持っているからな。シーラーズに多勢で攻め込まれたら、此方も防ぎきれない。ギュル大将とも話をしたが、開戦後この地の防衛戦での勝算は無いに等しい」
以前から、シーラーズについてはもし帝国と戦争となった場合、防衛が難しいことが議論されていた。この地を守ろうとすれば、多数の犠牲を出すことになるだろう。
「……帝国軍の投入兵力次第ではシーラーズを放棄しましょう」
ムラト大将は頷いて賛同する。他国からの援軍が来るまでに第二都市のエスファハーンは守りぬきたいと言った。
「ええ。西方警備のハッダート大将の許に兵力を増員しましょう。そして帝国からの攻撃開始後には私もエスファハーンに移ります」
「おいおい。長官が本部を不在にするのか?」
「エスファハーン陥落だけは避けなければなりません。ハッダート大将と共に指揮を執り、援軍到着までの時間を稼ぎます」
「皆の士気があがるのは確かだが……。しかし危険だぞ、レオン」
「危険という意味では、この事態では何処に居ても同じです。それに此処では状況判断が鈍ってしまいます。戦地に居た方が判断し易い。ムラト大将には本部をお願いします」
「……解った。本部所属の将官を何人か選出しておこう」
「それよりもシーラーズの住人の状況はどうなっていますか?」
「既にシーラーズ含め、予想される戦闘地域には避難命令を出してある。帝国は資源を欲しているのだから、町に損害を与えることはないだろう。まあ多少の経済的損失はあるがな」
「財務部からの苦言は私が引き受けますから、人命優先でお願いします。緒戦から暫くは此方にとって不利な状況が続くでしょうね」
「長期戦に持ち込まなければ、此方に勝利は無い。帝国もそれを解っているだろう」
ムラト大将は珈琲を飲み、地図を見つめた。おそらく同じことを考えているのだろう。長期戦に持ち込めず、帝国軍が戦争早期に国内の半分の領域にまで攻め込んできたとしたら、負ける――と。
アジア連邦や北アメリカ合衆国が援軍を送ってくれるとはいえ、楽観は出来ない。
「帝国は陸軍だけで二百八十万。此方は陸軍しか持たず七十七万。アジア連邦と北アメリカ合衆国の陸軍をあわせて二百四十九万。正直なところ、二ヶ国からの援軍が無ければすぐにでも首都が落とされてしまいそうだ」
「帝国は緒戦でどのぐらいの兵力を投入すると考えます?」
「長期戦を避けたいだろうことを考えて、八十万といったところか。シーラーズを落とし、原料を確保したうえで一気に兵を投入してくる筈だ。エスファハーンに入った後は、次の狙いを首都に定めるだろう」
帝国は要所のみに的を絞るに違いない。幸いにして、首都は国の北部にあって西の国境からは遠いから、シーラーズやエスファハーンからは大軍到着までに日数を要するだろう。その間に、援軍が到着すれば、首都攻略は何とか食い止められる。
「ところでホスロー様の護衛から連絡は入っているか?」
元国王のホスロー二世は今、首都アンカラ郊外の静かな邸宅に身を置いている。君主制を否定したことを宣戦の理由としているのだから、帝国が元国王の立場を利用しないとも限らない。用心して、邸宅は軍が守っていた。
「異常は何も無いそうです。昨晩、ホスロー様から私に連絡がありました。この事態を憂慮するとそう仰っていました」
昨晩のその言葉が思い返される。私が退位したことで国が失われるようなことになったとしたら、私は国を守る責任を放棄したことになるな――と、言っていた。この国の選択は決して間違ったことではない。それを証明するためにも、負けるわけにはいかなかった。
「それから先程、アジア連邦の次官と最終確認を行いました。帝国軍が此方の領土に入ったことを確認したら、すぐに援軍を派遣してもらえることになっています」
「……しかしあの聡明な宰相のことだ。此方がアジア連邦や北アメリカ合衆国と同盟を結んでいることぐらい読んでいるだろう。そして陸軍長官ジャン・ヴァロワ大将も侮れない人物だ。何しろ、大佐の頃に単独でテロ活動を収束させた男だからな」
帝国軍陸軍長官ジャン・ヴァロワ大将には、数々の功績があると聞いている。その噂は帝国を出て他国に知れ渡るほどだった。旧領主家出身でもない人間が、陸軍部の長官にまで上り詰めた。それはやはり、彼の実績が誰にも否定出来ないものであったからだろう。つまりはそれだけの大物であって、出来れば敵には回したくない人物だった。
「宰相と言い、ヴァロワ大将といい、あちらは逸材揃いですね」
今回の戦争の総指揮を宰相が執るという噂もある。これはギルバートからもたらされた最後の情報だった。戦争状態に入ったからには、この国への通信も制限される。彼から情報を得られることはもう無いだろう。
「今回の戦争は帝国にとって示威のためのものでしかない。そう考えると、次期皇位継承者である宰相が指揮を執るのは納得出来る。……が、あの温厚そうな宰相が今回の侵略を一人で画策したとも思えないがな」
ムラト大将の宰相に対する評価は高かった。昨年の国際会議直前、実際に宰相とも会って話を交わしている。その印象は非常に良かったようで、あの宰相が居る限り帝国が無謀な行動に走ることはないのではないか、とも言っていた。
「……まあ、権力を得たら人は変わる。宰相も次期皇位継承者となってから、何かが変わったのかもしれんな」
「そうですね。当初は彼が皇帝となっても悪くは無いかもしれないと思っていましたが、この事態に至ったことを考えると……」
ムラト大将はカップを持ち上げて珈琲を飲み、考え込むような表情で言った。
「状況だけを考えると、俺達は宰相に出し抜かれたことになるが……。だがレオン、俺はあの宰相を信じても良いと思っている。単なる勘だが、あの宰相は短絡的な侵略戦争を計画するような人間には思えない。どうせ戦争をするなら、もっと用意周到に……むしろ此方が戦争をせざるを得ない状況を作り出すのではないかと思う。たった一度会談の席で話しただけだから、その印象だけで判断するのは良くないことだが……」
「誰かが宰相を動かしている、と?」
断言は出来ないがな――と、ムラト大将は言って残りの珈琲を飲み立ち上がった。
「テオと俺のことは大丈夫だから心配しないで。じゃあ、暫くは連絡出来ないから……。うん、祖父さんにも心配しないように伝えておいて。……解ってる。気をつけるから」