新世界
「陛……下……。しかし、私は……」
「それにお前とマリとの間に子が出来れば、それで系統は戻る。マリの血も引いているのだからな」
「私は……一家臣に過ぎません」
「私もマリも認めたことだ。とはいえ、これに関しては反対意見もあろう。マリには一度皇位を継承させ、その後移譲という形を取る」
皇女マリが何故いきなりそのようなことを言い出したのか。その方が気にかかった。彼女は何か考えているのではないか。
ゆくゆくは私が皇帝となる――。
邸に帰ってからずっとそのことを考えていたが、実感がわかないどころか、私は酷く躊躇していた。少なくとも私が望んでいた方向に話が進んでいるのに、嬉しいとも何とも感じなかった。まるで皇帝の大きな力に丸め込まれているようで、日に日に身動きが取れなくなっていくように感じる。
皇帝の権力が日増しに強まっていくような――。そして私がそれを抑えきれずに右往左往しているように思えてならない。
これではロイの言う通り、私は皇帝の言いなりに過ぎない。そうして権力を得ることが私の願いだったか? 否、違う。私は私の望む国家を作り上げるために――。
そのために、ロイを犠牲にした。権力をこの手に入れてから、周辺各国と調和の取れる国家に変えるために。
そう考えれば――。
今、立ち止まってはならない。振り返ってはならない――。
すぐ先にロイの姿が見えた。手を伸ばせば届きそうで、ロイと呼び掛けて手を伸ばしたが、ロイは此方をちらと見て、背を向け去っていく。私の横をすっと駆け抜ける人影に視線を遣ると、皇女マリだった。彼女はロイの許に走っていく。ロイは彼女が来るのを待つために立ち止まった。皇女マリはロイと手を取って微笑み合う。そして二人は私の前から立ち去ろうとする。
待ってくれ――そう呼び掛けたのに、二人は振り向きもしなかった。追いかけようにも私の足はまったく動かなかった。ロイ、ロイ――何度も呼ぶのにロイは二度と振り返ることなく、やがて私の視界から消えた――。
「ロ……」
傍と眼を開くと、其処は寝室だった。ロイが居る訳が無かった。ビザンツ王国に近い国境で放逐されたというから、今頃はビザンツ王国に身を置いているのかもしれない。
ロイの夢を見ることは度々あった。ロイは決まって、呆れた眼で私を見る。そして私の前から姿を消す。
今日もその夢だった。ベッドから起き上がりひとつ息を吐いて、時計を見る。十時が過ぎたところだった。休日だとはいえ、随分眠り込んでしまった。このところあまり眠れなかったせいかもしれない。
すぐにベッドから出て着替えを済ませる。廊下に出ると階下に居たミクラス夫人がおはようございますと声をかけてくる。
「おはよう。随分寝過ごしてしまったようだ」
「お疲れだったのでしょう。すぐに朝食の支度を整えます」
ミクラス夫人はいつも通りの柔和な表情でそう言って、キッチンへと向かう。ダイニングルームに行き、テーブルに置いてあった新聞に眼を通していると程なくして、食事が運ばれてくる。軽く食事を摂ってから、再び新聞に眼を通す。新トルコ共和国が成立してからというもの、新聞の何処かには必ず新トルコ共和国の話題が上っていた。国民の関心も高いということなのだろう。一通り新聞を読み終えてから、何気なく窓に眼を遣った。今日は穏やかな晴天だった。
気晴らしに庭を散歩するのも良いかもしれない――。そう考えて、上着を羽織り、外に出た。
邸のなかの庭は広く、子供の頃は体調さえ良ければ、ロイと共によく遊んだものだった。中庭に入ると父親の部屋が見える。父親の部屋のバルコニーには、テーブルと椅子があって、父は度々其処に客人を招いて話をしていた。また、家の裏の一角にはベリーが自生していた。母と共にベリーを摘み取ることもあった。
この邸は季節に合わせて、色とりどりの花が咲く。今もそれは変わりないことだが、自分の眼には何だか色褪せて見えた。決して管理が行き届いていない訳ではないのに、以前と同じ光景が今は違って見える。
ロイは今何処に居るのだろうか――。
私が皇女マリと結婚すれば、この家を守る者は居なくなる。このままでは皇族の所領地となってしまう。従兄弟に家を任せることは出来るが、ロイのことを考えると、彼等に家を任せることに躊躇を感じる。
追放に処せられたとはいえ、私が皇帝となり、恩赦を発すればロイは帰国することが出来る。だがその時、ロイは帰国してくれるだろうか。再び私の前に現れてくれるだろうか――。
いや、それよりも元気で暮らしているのだろうか。1000ターラーあれば暫くは生活に困ることも無いだろう。ロイが連絡さえ寄越してくれれば、此方から援助することも出来るが――。
「ハインリヒ様のことをお考えですか? フェルディナント様」
いつのまにかフリッツが側に来ていたらしい。フリッツは手にコートを持っていた。
「今日は晴天とはいえ、底冷えがします。それだけではお風邪を召されますよ」
「……ありがとう」
フリッツの持って来てくれたコートを羽織る。吐く息が白いことに、この時気付いた。
「ビザンツ王国は此処よりも寒い国だ。春もまだ先だろう。ロイはきちんと暖かい住処に居るだろうか」
「ハインリヒ様のことでしたら御心配ないかと思います。軍では厳冬中の過酷な訓練もあったと聞いておりますし、それにハインリヒ様も落ち着いたら必ず連絡を下さるでしょう」
「連絡をくれるだろうか……」
「今すぐには難しいかもしれませんが、いつか必ず。それに私達もハインリヒ様の行方を捜しております。ですから、フェルディナント様はハインリヒ様のことでもうお悩みにならないで下さい。いつまでも思い詰めては、お身体を壊してしまいますよ」
「いつか必ず……、また会える……か」
フリッツに向かって微笑むと、フリッツは邸に入るよう促した。フリッツの言う通り、底冷えがすると思っていたら、空から雪が舞ってきた。
「ロイの捜索、手数をかけるが頼む」
フリッツは勿論です、と言ってくれた。
もしロイと会えたら、私は真っ先に謝りたかった。たとえ許してもらえずとも、ロイに対して酷い裏切りをしてしまったことを謝らなければならなかった。
こうして失ってはじめて知るとは、情けないことだ――。
この年の冬は例年になく寒い冬だったが、3月の中旬を過ぎてからは徐々に暖かくなってきた。皇女マリとの婚約を正式に発表し、周囲やメディアは騒ぎ立てたが、私は普段通りの生活を送っていた。執務に差し障りがあるので顔は出さなかったが、皇女と宰相の婚約というニュースは全世界に報じられた。
ロイもこのニュースを見ているのだろうか――。自分の名前が新聞やテレビで報じられるたび、ロイのことを考えた。
また、皇女マリは私と結婚することが自分の運命であるかのように、淡々としていた。何度か言葉を交わしたが、それは殆ど事務的なものであって、ロイの話が上がることもなかった。
ただ一言、私に継承権を移譲するという話をした後で、皇女マリは言った。
『帝国を宜しくお願いしますね。フェルディナント様』