新世界
第4章 たったひとつの野望
ロイが追放されてひと月が経とうとしていた。時間は何があろうと規則的に過ぎゆくものだった。時の流れの無情さを気付かされ、そして自分自身の胸がぽっかりと空いてしまった。
当初は何故ロイが皇女を誘拐したのかと宮殿内で騒がれたが、皇女マリとの関係は最後まで伏せられていたため、真相を知る者は極少数であり、やがて人々の話題にも上らなくなった。ロイの後任には適任が居ないということで、暫くヴァロワ長官が海軍の統括も兼任することとなった。
定刻に出勤して執務をこなす――そんないつも通りの毎日を送っていた。皇女マリとの婚約も来週、公式発表されることとなり、周囲が慌ただしく動いていたが、私は殆ど関心の無いままだった。ロイを追い詰めてまで手に入れた座だというのに、今となってはどうしてそのような選択をしてしまったのか悔やまれてならない。
だが、いつも通りの執務に取り組む毎日は今日までだった。この日外務省からもたらされた報せは、帝国内に騒動を呼び込ませることとなった。
新トルコ王国が共和制への体制移行を発表した。国王ならびに王族達は継承権を破棄することを宣言し、議会はそれを認めた。新トルコ王国はその名も改め、新トルコ共和国となった。
レオンの言っていた通りとなった。
「新トルコ王国が共和制に移行したとなると此方の外交方針も変えなければならない。正直、彼の国が帝国と合衆国、アジア連邦との緩衝材になっていた節がありますからな。帝国への風当たりがさらに強くなるでしょう」
外務省長官のウェーバー卿は、苦々しげな表情でそう言った。
「新トルコ王国は、もとよりアジア連邦との繋がりが深かった国。体制が変わったとはいえ、すぐに此方の風当たりに影響することはありますまい。しかし、国際会議での我々の肩身が狭くなるのは必至。近年、王国から共和制へと移行する国家が増加しつつあります。外務省には新トルコ共和国との関係を一層深める形で動いていただきたい。あの国を敵としては、此方も少々分が悪い」
「……アジア連邦と合衆国が新トルコ共和国と手を組んだ場合、帝国と軍事力は互角となるとお考えか?」
「ほぼ互角でしょう。アジア連邦と合衆国は帝国に継ぐ大国。其処に経済力のある新トルコ共和国が加われば、仮に戦争となった場合、たとえ勝利したとしても帝国の受ける損害は大きすぎる」
「新トルコ共和国には豊富な地下資源があると聞きます。帝国がそれを没収すれば、もしくは新トルコ共和国を租借地とするなら、戦争による損害は解消されるかと思いますが」
「ウェーバー卿。帝国は侵略を行わないという陛下の御言葉をお忘れか。それにその三ヶ国と戦争になれば、帝国軍といえどそう容易く勝利は出来ない。むしろ敗戦に終わる確率のほうが高い」
ウェーバー卿は守旧派の考えに近い。外務省は次官の一人が進歩派で、私やオスヴァルトの見解と近い考えを持った人物だが、守旧派の多い省のひとつだった。私自身、元々外務省に身を置いていたから、その複雑な事情をよく知っている。上官に守旧派が多いから、進歩派はいつも身動きが取れない。
「しかし宰相殿。この情勢下において、一歩身の振り方を間違えれば、帝国は弱国に成り下がる危険があるということもお考えになってください。……それでは私は失礼させていただきます」
「情報をありがとうございました。ウェーバー卿」
ウェーバー卿が宰相室から出て行くと、オスヴァルトが溜息を吐いて言った。
「一歩身の振り方を間違えれば……とは言いますが、それこそ新トルコ共和国に敵対心を剥き出しにすれば、帝国は孤立してしまうでしょうに。外務長官は余程帝国が強いとお思いなのか……」
「世界中で一番広大な国土を保有し、第一位の経済力を持つのもこの国だ。帝国279年の栄華というフレーズを信じているのだろう。アジア連邦と合衆国が近年めざましい発展を遂げ、経済や開発において帝国の地位を脅かしつつある事実には眼を向けていないようだ」
「加えて新トルコ共和国の存在ですからね。三ヶ国が同盟でも結んだら、それこそ帝国にとって一大事でしょう」
新トルコ共和国は小国とはいえ、強国といえる。体制を移行させるという事態に対しても、内外の混乱を見越してあらゆる措置を講じていることだろう。国内で混乱が起きないとしても、対外的な策は必至と考えている筈だ。ムラト次官が帝国の侵略に対して釘を刺したのもそのためだろう。
「閣下?」
オスヴァルトの発言にある考えが思い当たって黙り込んでいると、オスヴァルトが気遣わしげに声をかけた。
「……もしかすると既に同盟は成立しているのかもしれんな。少なくともアジア連邦とは」
同盟と言わずとも、何らかの交渉が為されているのかもしれない。そうだとしたら、現体制の維持を望む帝国にとっては、酷く厄介な存在となる。一方で、帝国内の運動家達は今が好機とばかりに共和制への移行ないしは、皇帝の権力の及ばない議会の発足を望むだろう。彼等にとっては今が動きやすい時だ。
「そうなると守旧派の方々が大騒ぎするでしょうね」
「軍務省のヴァロワ卿あたりは大変だろうな。厄介なことにならなければ良いが……」
新トルコ共和国への侵攻を求める声はかねてからある。今回の体制移行でそうした声が強まらなければ良いが、外務省のウェーバー卿でさえあのようなことを言っていたから一抹の不安が残る。守旧派の大御所達が皇帝に侵略を進言しなければ良いが――。
「陛下の許に行ってくる」
「解りました」
新トルコ王国の共和制移行は、今月に入って外務省内で囁かれていたことだった。大々的に報じられることは無かったから、今頃メディアは大いに騒いでいることだろう。否、メディアどころか各省内が騒ぎ出しているに違いない。
「急ぎお伝え申し上げたいことがあり、参上しました」
皇帝の執務室に足を踏み入れてそう告げると、皇帝は解ったと答えてから顔を上げた。新トルコ王国が共和制に移行した旨を手短に伝える。皇帝は驚きを露わにした。外務省からその噂が囁かれていた時に一度耳に入れておいたことだが、その時皇帝は半信半疑の様子だった。
「では……、此方の分が悪くなるな」
皇帝が髭を蓄えた顎に手をやって呟いた。
「新トルコ共和国との友好条約の再締結を提案致します。彼の国は小国ながら経済力が強く、周辺国との関係もありますれば敵対するのは賢明な手段ではありません」
「友好条約か……。考えておこう」
皇帝は徐に椅子から立ち上がった。此方を顧みてフェルディナント、と声をかける。
「此方に来て座りなさい。話がある」
「御意」
皇帝が指し示した位置――皇帝の向かい側のソファ――に腰を下ろす。皇帝は秘書官を下がらせた。
「今から一週間前のことだ。マリが私の許に来て言った。お前と結婚した暁には、皇位をお前に譲りたいとな」
咄嗟に言葉が出なかった。
私に皇位を譲る? 一体何故、そんなことになるのか――。
「マリは自分には皇帝の器量は無いと言う。私としては皇統が他家に移ることになると止めたのだが……、マリはこれ以上の我儘は言わないからどうしてもと言ってな。お前に才あることは私も認めている。帝国を盛り立ててくれよう。考えた末、私もそれを許した」