新世界
ヴァロワ長官もオスヴァルトも驚いた様子で眼を見開いた。皇女マリとロイとの仲について、これまで誰にも話したことはなかった。ロイもそうだったのだろう。
「婚約の話はフアナ様がお亡くなりになる前……ちょうどそのひと月前のことでした。それが、フアナ様がお亡くなりになり、続いてエリザベート様までもがお亡くなりになったことから、陛下は残る継承者のマリ様の相手には、武官よりも政治に長けた者の方が良いと仰って、弟ではなく私に結婚の話を持ちかけたのです」
「そんなことが……あったのか……」
「ええ。悩みましたが陛下の申し出を受け入れることにした結果……、今回の事態となりました」
「私はすぐに申し出を受け入れたと聞いていたが……」
「陛下の御命令でしたから……。噂もそのように流れたのでしょう」
「断る余地も無かったということか……。ならばハインリヒが皇女を連れ出すなど突飛も無い行動に出るのも得心がいく……」
「断る余地が無かった訳ではありません。私がこの職を辞す覚悟があれば、申し出を断ることも出来た筈です。しかし私は出来なかった……」
「それは閣下の責任ではありません。陛下の御命令ならば、拒むことは出来ないのですから」
「ハインリヒの気持も解るが、ハインリヒが愚かだ。皇帝が全権を握るこの国にあって、皇帝に逆らえばどうなるかハインリヒ自身もよく知っている筈だ。……それなのに、あいつは帝国内を逃げ切るつもりか。それも皇女を連れて。如何に勇猛果敢だとはいえ、監視の目それほど甘くは無いぞ」
ヴァロワ卿はオスヴァルトに向かって、地図はあるかと尋ねた。オスヴァルトは席を立ち、隣の部屋から帝国内の詳細な地図を持って来る。それを机の上に広げて、ヴァロワ卿は指差した。
「鉄道は全て見張らせている。その他、車での移動も考えて検問も行っている。帝都では其方の邸宅はじめ、陛下がお命じになったところを中心に捜索しているところだ」
「捕まればロイは死刑に処せられることは間違いありません」
「解っている。だからせめて逃げやすいよう抜け道を作っておいてやりたいと思っている。このようなことでハインリヒが命を落とす必要は無い。これまでハインリヒはどれだけ帝国のために尽力してきたか」
「率直に言えば、ロイ一人なら逃げ切れると思うのです。しかし、マリ様も一緒となると何処まで逃げ切れるか……」
「どの方面に向かっているか、予想はつくか?」
「おそらくは、東……新トルコ王国に向かっています。移動手段は車ではない筈です」
「では東の方は道路を見張れと言っておこう。それから……」
ヴァロワ卿の指が地図の上を進んでいった時、携帯電話が鳴った。胸の内ポケットにいれておいたそれを取り出すと、画面にはフリッツの名が表示されていた。
ロイと接触できたのか――。
受信ボタンを押すと、フリッツの声が聞こえてくる。フリッツは声を潜めて言った。
「ハインリヒ様がたった今、捕まりました。ちょうど私達が見つけた眼の前で――。間に合いませんでした。フェルディナント様――、申し訳御座いません」
ロイが捕まった。
声が出なかった。フリッツが何か言っていたが、何を言っているのかさえ解らなかった。
ロイが捕まった――。
「宰相……?」
力が抜けていく。脱力感に襲われ倒れ込みそうになるのを、何とか踏みとどまろうとすると、オスヴァルトが横からそっと手を貸してくれた。
「まさか……捕まったのか……?」
「たった今……、捕まったそうです。すぐ此方にも連絡が……」
眼が眩む。こんな時に倒れている場合ではないのに、身体が動かない。
「確りしろ、宰相! ハインリヒの助命嘆願をこれからすぐに集める。宰相からも確りと皇帝にお伝えしろ。今出来るのはそれだけだろう」
程なくして宰相室に連絡が入った。
皇女マリとロイが駅近くの路上で見つかった――と。予想していた通り、二人は新トルコ王国へ向かっていた。その駅からの電車は新トルコ王国まで接続している。おそらくはその電車に乗り混もうとしたのだろう。
今、二人共に宮殿に送り返されているところだと言う。今日中には帝都に戻ってくるだろう。
「閣下……」
「陛下の許に……行ってくる」
ヴァロワ卿は既に部屋を去った後だった。この身を案じるオスヴァルトに大丈夫だと告げて立ち上がり、宰相室を出た。
ロイの助命嘆願を願い出る代わりに、この私の職務を辞す。それが今回の一件の責任の取り方だろう。それでもロイは死刑は免れないだろう。仮に免れたとしても、ロイは国外追放されてしまうかもしれない。何十年もの禁固刑を科せられるかもしれない。だがそれでも、私が待ってやれば良い。何年でも何十年でも。
「失礼致します。陛下」
皇帝の執務室では、秘書官と共に皇帝が待ち受けていた。皇帝は此方を厳しい眼で、一瞥した。
「ハインリヒはマリを拐かしたという。如何にお前が懇願しようと、私の意志は揺るがぬぞ」
「陛下。何卒お許し下さい。今回の一件は私にも責任のあることです」
「お前と婚約中の身のマリが、お前の弟と逃げたなど他省の長官にも聞かせられぬ。お前にはお前の責任を取ってもらう」
「……御意……。ですが陛下、どうかハインリヒには減刑を……。マリ様をお慕いすればこそ、ハインリヒは……」
「マリはこの私のものだ! ハインリヒが慕う? 家臣の分を弁えよ!」
喉元まで出かけた言葉を飲み込む。つい数ヶ月前まで、ロイは皇女マリの婚約者と認められていたではないか。それを今になって、家臣の分という言葉で否定するのか。
ロイはどんな思いで皇女を連れだしたか、この皇帝は本当に解っていないのではないか――。
「……申し訳御座いません」
「お前には再び宰相室での待機を命じる。私が命じるまで宮殿から出るな!」
皇女マリは午後八時を過ぎた頃、宮殿に戻って来た。侍女や秘書官達が安否を気遣うなか、皇女はすぐに皇帝の許に向かったのだと、オスヴァルトは教えてくれた。
一方、ロイはすぐに収監された。帝都の東端にある牢獄に連れて行かれた。これから取り調べを受け、それから皇帝が処罰を下すことになる。
皇帝のあの様子では減刑は見込めないだろう。そればかりか、今日中にも処刑が言い渡され、明日には執行されるかもしれない。
「閣下。少しお食事を摂ってからお休み下さい」
「……ああ」
「先程もそう返事をなさって、何もお食べになっていないではないですか。閣下が今、御倒れになったらハインリヒ様の件はどうなさるのです」
「……何があろうと、陛下の決定を覆すことは出来ん……」
「ヴァロワ長官もまだ奔走なさっている最中です。閣下がお望みを捨ててどうなさいますか」
「私には何の力も無い。陛下を宥めることも、弟一人の命を救うことも出来ない」
「閣下らしくない御言葉です。少しずつでもこの帝国を変えていくと、仰っていたではないですか」
「変えられないのだ。オスヴァルト。専制に阻まれて、私は何も変えられない」
「たかだか一度の失敗で何を落胆している?」