新世界
「流石だな。よく憶えている」
「各国の長官級の人物は憶えていなくては仕事にならないからな。しかし私はあちらの外交部となら何度か顔を合わせたことがあるが、軍部とはこれまで接点が無い」
「ムラト次官はなかなかの切れ者だ。俺達より少し年上で、これもまた噂だが、影で長官を操っていると聞いたこともある」
「それはまた興味深い話だが、もうすぐホテルに到着だ。ロイ」
ロイはほんの少し緩めていたネクタイに手を遣り、きつく締め直した。車がホテルに入っていく。玄関の前で停車して、ホテルのドアマンが車の前に歩み来る。運転手に礼を述べ、ロイの降りた後に車を降りる。
「総支配人に会いたい。私は宰相のフェルディナント・ルディ・ロートリンゲンだ。総支配人には火急の用があると伝えてほしい」
一人のドアマンが一礼するとすぐにホテルの中に入っていく。ロビーに入り、五分も待たされなかった。慌てた様子で中年の白髪交じりの男が現れて、恭しく頭を下げた。
「両閣下にはお初に御目にかかります。総支配人のアルフレッド・ビューローと申します。このたびは本当に難儀で御座いました。さ、どうぞ此方の部屋にお越し下さい」
「此処で充分だ。忙しいところを呼び出してしまって済まない。少々尋ねたいことがあるのだが、構わないかな」
「私にお答え出来ることで御座いましたら……」
「このホテルに新トルコ王国のムラト次官が滞在なさっていると聞く。ムラト次官とお会いしたいのだが、取り次いで貰えるだろうか?」
総支配人の男はすぐにムラト次官に連絡を取ってくれた。そして二十分後にこのホテルの特別室で面会することとなった。
それからきっちり二十分後、特別室で待っていたところ、扉が叩かれた。ムラト次官は背の高く、肩幅のある堂々とした風体の男だった。それでも威圧感を覚えないのは、彼の表情が柔和さを物語っていたからだろう。
「ムラト次官。お忙しいなか、面会を許可していただきありがとうございます。新ローマ帝国にて宰相を務めておりますフェルディナント・ルディ・ロートリンゲンと申します。此方は私の弟で軍務長官のハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン大将」
「お目にかかれて光栄です。ムラト次官」
「此方こそ。新トルコ王国軍部次官アビュドゥル・ムラト大将です。宰相閣下と軍務長官がじきじきにいらしてくれるとは望外の喜びです」
互いに握手を交わし合う。ムラト次官はロイを見て、一度会議でお見かけしたことがあります――と言った。ロイが言っていた一昨年の会議のことを言っているのだろう。
「お若い方だと思ったのでよく憶えています。それに若干25歳にして宰相となった閣下のことは当時、新トルコ王国でも随分話題に上がりまして、その方の弟御ということで興味もあったのですよ」
「私は貴国の軍部長官と同い年と聞き及んでおります。長官とはお会いしたことが御座いませんが……」
国際会議には長官級の人物の列席が求められる。したがって、省の長官や宰相が出席するものだが、今のところ新トルコ王国の長官はどの国際会議にも出席したことが無いということになる。軍備に関する会議は一昨年に一度開催され、その時もこのムラト次官が出席している。今回もムラト次官が長官の代理で来たということは、新トルコ王国には長官を国外に出したくない理由でもあるのだろうか。それとも多忙なのか。もし多忙なのだとしたら、マルセイユに滞在していた時に出会ったレオンの新トルコ王国の体制移行という話が、現実味を帯びてくる。
「長官は多忙のため、このたびの国際会議にも私が代理として出席することになりました。長官となってから未だ国際会議に列席したことが無いことを気にしていましたが、予定を組み替えることも出来なかったのです」
「それは残念でした。長官にも宜しくお伝え下さい」
一通りの挨拶を済ませてから席に着き、救援要請への礼を述べる。ムラト次官は礼には及ばないと前置いてから、その状況を語ってくれた。
「部屋から窓の外を見たときに、低空飛行をしている機体が見えたのです。どうも空港ではないところに降り立つようだったので、此方のホテルの支配人に頼んで救援を手配してもらったまでのこと。しかし大事に至らなくて良かった」
「上空で嵐に巻き込まれてしまったようです。通信機器が壊れてしまい、連絡が取れない状態でしたので本当に助かりました」
「嵐に……。それは大変でした。私も一度事故に巻き込まれたことがありましてね。やはり同じように機体が嵐に巻き込まれたのですが、片翼を失い墜落してしまったのです。幸いこうして生きていますが、あのような思いは二度と味わいたくないものです」
こうして話していても、ムラト次官は温厚な男だった。彼にはもともと対外的には穏健派だとの噂があって、前長官が辞したときも彼が長官になるのではないかと目されていた。
ところがそんなムラト大将を差し置いて、大将となって間もないアンドリオティス大将が長官となった。彼はこのムラト次官の後輩に当たると聞いている。優秀な人物と聞いているが、一体どのような人物なのだろうか。
「天災も人災もそれを元通りにするには時間がかかります。天災は完全には回避出来ませんが、人災は回避可能なもの。我々の出来ることとして、この世界のために人災は無くしたいものですな」
ムラト次官は微笑みながらそう言った。帝国に対して、国境を侵すなと釘を差しているのだろうことはすぐに解った。こんな形で釘を差すということは、やはり体制移行が近いのだろうか。長官が会議に参加しないことも、その地場固めのためか。
「帝国は侵略を許さない。侵略という行為は未来に禍根を残すものと私は考えます」
「私も貴殿と同感です。私は軍人ですが、戦争回避の努力は怠りたくない」
現皇帝に侵略の意志は無い。領土拡大という言葉をこれまで一度も皇帝から聞いたことは無かった。新トルコ王国への侵略を求める声はあるが、それはロイや陸軍のヴァロワ卿の力で抑えられる。新トルコ王国は此方が考えている以上に警戒しているようだが、何を根拠にしているのだろう――。
ムラト次官との面会を終え、滞在予定のホテルに到着すると事務官の一人が待ち受けていた。宮殿への連絡と会議場の視察は済ませたと言う。機体もすぐに修理に出すということで、帰りに支障は無いとのことだった。
「そうか。では会議が始まるまでの間は自由にしてくれ」
ロイと私の荷物は既に部屋に運び込まれていた。部屋に入って上着とネクタイを脱ぐ。流石に少々疲れを感じていたので、早めに休もうかと思っていたところだった。扉を叩く音が聞こえた。事務官かと思ったら、扉に取り付けられた覗き穴からは、ロイの姿が見えた
「どうした?」
「先刻の面会で少し気にかかったことがある。休む前に良いか?」
「ああ。……あ、そうか」
ムラト大将と私の会話に違和感を覚えたのだろう。ロイには新トルコ王国の体制移行のことは話していないから無理も無い。
「お前、俺の知らない何かを知っているだろう?」
「流石だな。ロイ。隠そうとしていた訳ではないんだ。ただ話しそびれていただけで……」
ロイは部屋のなかに入ると、ソファに腰を下ろした。