新世界
邸の前では既に車が待ち構えていた。車に乗り込んで、すぐに出発する。飛行場まで邸から三十分かかるところを、ロートリンゲン家の運転手を勤めるアーデルベルト・ケスラーは近道を使い、二十分で到着してくれた。
「ではフェルディナント様もハインリヒ様もお気をつけて」
ケスラーに見送られて、飛行場内に入る。専用機はいつでも出立できる状態だった。
「空路など何年ぶりだ」
機長の挨拶を受けてから、ロイと共に機内に乗り込む。窓際の一席に腰を下ろして、ロイはそう言った。
空路を使うことは公用でしか許されていない。そもそも航空機自体、国ごとに一機しか所持が認められていない。環境を保護するためと各国を容易に侵略し辛くするためではあるが、日常生活において空路が利用できないだけに、不便は多々ある。帝国のように広い国土を持つと、移動だけに相当な時間がかかってしまう。今回は国際会議への出席ということもあって、空路の利用が認められたが、もし国際会議でなければ陸路で移動しなければならなかった。
ロイと同じ列の反対側にある窓際の席に腰を下ろす。機内には今回の国際会議に参加する私達二人に加えて事務官が四人、それに護衛官五人が搭乗していた。同じ機内に乗っているといってもロイと私の席は前方の特別室だったから、彼等と顔を合わせたのは搭乗前だけだった。
「慌てて出掛けたから話さなかったのだけどな、ルディ」
「何だ?」
離陸してまもなく、ロイが席を立って私の席に近付いて来る。周囲に誰もいないのだから近くに寄らずとも良いだろうに――そう言いかけるとロイが声を潜めて言った。
「あまり大きな声で話せないことだ。……マリから聞いたことなんだが」
ロイは背後をちらと見てから、隣に腰を下ろした。
「先程の電話か?」
「ああ。このところ表にも出て来られないと不満を漏らしていたんだ。フアナ様の具合が悪いらしくてな」
「フアナ様が……?何故、そのことでマリ様が外出できなくなるのだ?」
「陛下がぴりぴりなさっているらしい。フアナ様に接する者は徹底的に管理されているらしいぞ。宮殿外の者は一切近付けない、宮殿から外に出た者は暫くフアナ様に近付いてはならない、と」
「もしかして御容態が相当悪いのか……?」
「先週、お倒れになって意識不明の状態だったそうだ。一昨日、意識を取り戻して今は何とか起き上がれる状態なのだと言っていた」
「知らなかった。陛下も何も仰らず……。まさかフアナ様がそれほどお悪いとは」
「宮殿内でも知っているのは医師とフアナ様付きの侍女だけだと言っていた。ルディが知らなくとも無理は無い。そもそも同じ宮殿に居るといっても、皇族の居住区には壁があるようなものだからな」
「陛下は皇女達を溺愛なさっている。だからこそ、フアナ様の周囲を徹底的に管理しているのだろうな」
「しかしそれにしても……、少々やり過ぎな節があるように思えるぞ。マリもフアナ様に近付けなくなるから、表に出て来られないのだと言っていた」
「……まあ、確かに皇女達に関することになると行きすぎた面はあるが……。政務には支障無いから私も其処までは口出し出来ない」
「皇女誘拐事件など起こったらとんでもないことになりそうだ」
ロイはそう言ってから、ふと席を立った。扉が開いて、若い女性が珈琲を淹れた盆を携えて歩み寄る。女性は愛想の良い表情で珈琲を置くと、また扉を閉めて去っていく。ロイは珈琲に口をつけ、それから窓の外を見る。それにつられるように私も窓の外を見た。真白い雲と蒼い空だけが見える。見渡す限りその光景が広がっていた。
「空の上だけはいつも平和だな」
ロイが何気なく呟く。言われてみれば、航空用の戦闘機は保持が許されていないから、世界中で一番平和な場所は何処かと問われれば、空の上だといえるだろう。
今回の会議では、各国の武器の保有数を確認し合い、条約に違反していないか確かめるものだった。戦闘目的で保有している小銃や地雷などがこれに当たる。拳銃や剣は規制の対象にはなっていない。国によっては民間での銃剣の所持が禁止されているところもある。帝国でも軍務省に所属する者以外、原則として所持は認められていない。しかし、製造元は国が把握していても密造や密売も横行しているから、拳銃や剣の数は把握しきれていないのが現状だった。また、帝国としても一斉に密造・密売の摘発が出来ないのは、そうした水面下での武器製造によって、万が一の事態――つまり他国からの侵略――に備えるという考えを持っているからでもある。
確かに備えが必要だと言われればそうだが、他国に侵攻するには宣戦布告が必要となり、またその兆候というものが必ず現れる。兆候が現れた時に、外交で片付けることも可能なのだから、必要以上の戦闘力は必要無いと私は考えていた。そもそも拳銃や剣を増やしても、それを操作する人員がいなければ無用の物となる。既に帝国には軍人の数に足るだけの拳銃と剣がある。もしそうした武器を最大限に生かして戦争をするとなれば、民間から徴兵しなくてはならなくなる。そうした事態は何としても避けたいものだった。自分から志望して軍人になる者はまだしも、そうでない人々を戦闘に巻き込みたくない。そうした犠牲はやがて国にとって負の面をもたらす。
「ルディ?どうかしたのか?」
「いや……。戦争という事態をなるべく避けたいものだと考えていただけだ」
「まあ軍人はお飾りでいた方が、世の中は平穏だよな」
「お飾りという言葉は言いすぎだ。今のように国境警備や災害救助で活躍してほしいと考えている」
「軍人というのは名ばかりだ。実際、俺もその方が平穏で良いと思っている」
「そうかもしれんが……。亡き父上が聞いたら叱り飛ばされそうな言葉だな」
「俺らしいといって天国で笑っているだろうよ。元々俺は軍人志望ではなかったしな。ルディのように普通に高校に通って大学に行って、道を選びたかった」
「そういうお前が今や長官だ。世も末だと思うよ」
そう告げるとロイは肩を少し引き上げて言った。
「別に今の立場に不満を持っている訳じゃないさ。功績は自分で手に入れたものだし、この仕事が自分には合っているのだろう。しかし偶に考えるんだ。軍人を選ばなければ俺は何をしていたかなと」
私にとってロイは羨ましい存在だった。いつでも充分に父親の期待に応えることが出来る。私は父親の前では常に疎外感を味わっていたようなものだった。その証拠に、父は何も期待していなかった。
だがロイからすると、確かに軍人となる以外の道を選ぶことは出来なかった。ロートリンゲンという家名と父親の強い期待が、ロイを縛り付けた。
「誰とて考えることだ。私も機会があったからこそ今こうして宰相となっているが、もし前宰相が健在ならば外交官のままだろう」
「どうだろうな。少なくとも外務省の長官ぐらいにはなってそうだぞ、お前は。官吏の試験でも難関と言われている外交官の試験を、トップで通過したのだからな」
「試験の点数が良くても、あの頃は外務省も色々と内情があったからな。そう簡単にはいかなかっただろう」