新世界
「ハインリヒ。皇帝を必ず生かして捕らえるんだ。良いな?」
「ヴァロワ卿……」
「私はフォン・シェリング大将を捕らえる。行くぞ!」
皇帝が船に向かって走り出した時、ヴァロワ卿が促した。ヴァロワ卿が一発の銃弾を撃つ。フォン・シェリング大将の足下を掠め、フォン・シェリング大将は振り返って応戦の体勢を取る。
皇帝はフォン・シェリング大将に構わず、碇泊している船に向けて走っていく。
逃がしてはならない。これ以上――。
もう終わらせなければ――。
追いつけるか――? 大丈夫だ、行ける。捕まえられる。
この距離なら追いつける。全速力で走れば――。
「ハインリヒ!伏せろ!」
え――?
ヴァロワ卿の声に従うより先に振り返った途端、ヴァロワ卿の腕が俺を突き飛ばした。
ズドン――。
鈍い音が間近で聞こえた。
今の音、まさか――。
「ヴァロワ……」
ヴァロワ卿は三発の銃弾を撃ち放つ。二発がフォン・シェリング大将の肩と腕に当たった。
「早く追いかけろ!」
ヴァロワ卿は右胸を押さえながら言った。其処からは血が溢れ出していた。
「ヴァロワ卿、怪我を……」
「構わん、行け! 早く! この機を逃すな!」
皇帝は船まであと少しというところだった。拳銃を構え、彼の足下を狙う。二発の銃声に皇帝は怯んで一歩下がり、此方を振り返った。その隙に皇帝の許に走っていく。
拳銃で威嚇しながら走り、何とか皇帝の腕を掴む。皇帝は手にしていた拳銃を此方に向けようとした。引き金に指がかかる前に、それを蹴り上げる。
「貴様……っ!」
「陛下! 見苦しい真似はお止め下さい!」
刹那――。
背後から、五発の銃声が聞こえた。
ヴァロワ卿か――。
ヴァロワ卿がフォン・シェリング大将を仕留めたのだろう。残るは眼の前の皇帝だけだ――。
「ハインリヒ・ロイ・ロートリンゲン! その手を放さぬか!」
「放しません……! 貴方に罪を認めてもらうまでは……!」
皇帝はぎろりと此方を見、必死に手を振り解こうとした。此処までの事態になってもまだ逃げようとするのか。
この男は本当に俺が知っている皇帝なのだろうか。玉座に堂々と腰を下ろし、至高の存在として権力を揮っていたあの皇帝なのだろうか――。
つい手が放れ、その隙に皇帝は拳銃を拾い上げる。
そしてその銃口をこめかみに当てた。
咄嗟に、拳銃を撃ち飛ばす。手を負傷したようで、もう片方の手で押さえながら俺を睨み付けた。
「ハインリヒ……!」
「罪をお認め下さい……! 陛下、私は貴方を無能な人間だとは思っていない。兄も……、貴方のことを評価していたんだ……」
左手で皇帝の腕をもう一度掴む。尚も逃げようとしてか手を振り解こうとしたが、それが無理だと悟ってか、皇帝の力が緩んだ。
「閣下!」
トニトゥルス隊の隊員が駆け寄って来る。彼等に皇帝の身柄を預けた。皇帝には手錠がかけられ、両脇を隊員に抱えられながら連行された。
これで、終わった――。
安堵感と共に胸にぐっと悲しさが押し寄せてくる。それを堪えるために、拳を握り締めた。まだ事後処理が残っている。ヴァロワ卿と相談して――。
そうだ、ヴァロワ卿――。
俺を庇って右胸を負傷していた。早く手当を――。
ヴァロワ卿は何処に――。
振り返り、ヴァロワ卿の姿を探す。
ヴァロワ卿は座り込んでいた。昨晩から皇帝を追っていたというのだから、疲れ果ててしまったのだろう。
「ヴァロワ……」
呼び掛けた時、ヴァロワ卿の身体が前のめりに倒れていった。
「閣下!」
カサル大佐がヴァロワ卿の許に駆けつける。
一体、何が起こったのか解らなかった。カサル大佐が俯せに倒れたヴァロワ卿の身体を、仰向けにする。
まさか――。
まさか……!
「ヴァロワ卿!」
深手だったとは思わなかった。ヴァロワ卿はあの後もフォン・シェリング大将と応戦していたから――。
そうだ――。
あの時の銃声。
まさか――、あの時の銃声は――。
ヴァロワ卿が撃たれた音だったのか……?
あの時の銃声は、ヴァロワ卿がフォン・シェリング大将に放ったものだと思っていた。否、フォン・シェリング大将の身体はヴァロワ卿から少し離れたところにある。倒れていて、今、布がかけられた。死んだということだ。
しかし、カサル大佐の足下に倒れているのは紛れもなくヴァロワ卿で――。
右胸と、腹部、そして大腿部を撃ち抜かれていた。
「ヴァロワ卿……!」
その唇からは血が流れ出していた。
ヴァロワ卿――と、何度か呼び掛けると、ヴァロワ卿の眼がゆっくり開く。そして唇が少し動いた。
「喋らないで下さい。すぐに病院に連れて行きます」
カサル大佐は既に救急車を呼んだことを告げた。上着を脱いで、袖を切り、ヴァロワ卿の腹部と右胸を押さえる。それでも血がどくどくと溢れ出す。
「ハインリ……ヒ……」
「喋っては駄目だ! 血が……!」
ヴァロワ卿の口から血が溢れ出す。肺を傷付けたに違いない。早く、早く手当をしなければ――。
ヴァロワ卿の手が伸びてくる。すぐに救急車が来るから――と、その手を握り締めて伝える。
ヴァロワ卿は笑みを浮かべた。
「……頑張れ……よ……」
「ヴァロワ卿……?」
上下していた胸が、その動きを止める。眼が、虚ろになり――。
駄目だ……。駄目だ……!
「ヴァロワ卿、ヴァロワ卿!!」
救急車が到着したのはその直後のことで、ヴァロワ卿に蘇生の処置が施されたが、息を吹き返すことは無かった。
ヴァロワ卿はフォン・シェリング大将とその息子のフォン・シェリング少将を一人で倒した。二人とも絶命しており、激しい銃撃戦の跡が窺えた。
ヴァロワ卿の射撃の腕は俺もよく知っている。射撃場で何度か競い合ったこともある。正確な射撃だった。
だから――。
ヴァロワ卿が万全の状態で臨んでいれば、銃弾に倒れることは無かった。
俺を――、俺を庇ったから――。
皇帝を追うことに夢中で、確認を怠った。フォン・シェリング大将の銃口が此方に向いているとは考えなかった。
ヴァロワ卿はその俺を庇い――。
利き腕のある右胸を負傷した状態で、フォン・シェリング大将と応戦した。
俺はまた――。
俺のせいで、大切な人を失った――。
ヴァロワ卿は独身で親戚も居なかったため、遺体は俺が引き取った。ヴァロワ卿とは入隊前に出会って、それ以来、兄のように慕ってきた。ルディとも些かの縁があり、気心の知れた先輩だった。また、入隊後に知ったことだが、ヴァロワ卿は亡き父とも親しかった。
だから――、ヴァロワ卿の遺体と共に屋敷に戻った時、皆が言葉を失った。俺を庇ってくれたことを伝えると、フリッツが事情を察してか、葬儀の手配を執りおこなってくれた。ルディとヴァロワ卿、二人の葬儀は同日に行うこととなった。
報告のため、本部に行かなければならないことは解っていたが、身体が動かなかった。二人の棺を前に、崩れるように座り込んだ。泣くにも泣けず、声も出なかった。